日記をおもしろくするには、生活をおもしろくするしかない?
ってことを思ったのでメモしておこ。書きながら考えていく。
「これで記事を量産できる!」「ポッドキャストも生成できる!」という視点はその通りだな、と思いつつ、自分が Generative AI ブームより前から続けてきた「日記を書く」といった生活者の活動には、あまり影響がないな〜とも感じている。 いちおうね、Generative AI を自分の生活に役立てるには…?という観点はあってあれこれ試してみてもいるのだけれど、今のところ大きなインパクトはない。 もともと、自分が感じたこと・考えたことは出力できていた
内省も自力でけっこうやってきた
生活じゃなくて仕事っぽい文脈だと、Generative AI のおかげで実装できたソフトウェアがある。このへんは量的変化と捉えていいのかなあ。自分の手を動かして実装できなくもないが AI Agent に頼めばかなり楽に実装できる、ってものはつくられるようになった。10 時間かかるなら「やめておく」になるけど 1 時間でつくれるなら「やっちゃおう」になる。量的変化が質的変化をもたらしている、とも言えるか。10 時間が 9 時間になるだけなら量的変化の範疇という気分だけど、これが 1 時間になるなら質的変化と言っちゃっていいかも。 こういう「効率」「生産性」系のカテゴリにおいては、けっこうなインパクトを感じているんだよな。でも生活は「効率」「生産性」の物差しで測るばかりじゃないんだ。Generative AI がぼくの日記や純朴声活を直接的におもしろくしてくれることはない。ただ、たとえば Generative AI を使ってこんな実験をしました、ってことを日記に書いたらおもしろみがあるとは思う。そのために必要なのは「こういう実験をやろう」という発想と行動であって、体現するには、やっぱりぼく自身がおもしろくなるしかないんじゃないか? ソーシャルメディアについて、「業者として語るのか」「生活者として語るのか」で、同じ対象について論じていても観点が違いすぎてぜんぜん話が噛み合わないときがあるよね。これはブログが流行った時期にはすでにそうだった。そういう構図がある。生活者として日記やポッドキャストを楽しんでいるときには「市場規模」「インプレッション」なんかはぜんぜん気にしていなかったりする。 生活者の発信はどうかなあ。ぼくが、温かみのある手作業で数年に渡って日記を書いてきてしまったので、旧・人類として思考が凝り固まってしまっているだけの可能性はおおいにあるか。Generative AI によって生活の様子をおもしろく記録できている、という事例があったら積極的に知っていきたいわ。そういう目線をもって探求していってみよう。 映像や音声をひたすら録画・録音しておいてくれて、その日の出来事を勝手にサマライズしてくれたりするのはおもしろいよね。このへんは模索が楽しそうだな。認識が少し前に進んだわ、ラッキー!