ジェンダーの考え方
ジェンダーの考え方 権力とポジショナリティから考える入門書
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紹介
規範や権力作用という視点を軸にして、基礎概念からジェンダー論の核心、ポジショナリティなどの新たな概念までを、豊富な具体例を用いて平易に説く。ジェンダー論を学ぶ「はじめの一歩」にとどまらず、二歩目、三歩目を力強く後押しする画期的な入門書。
解説
ジェンダー平等の実現を目指すべきといわれる一方で、ジェンダーやフェミニズムは社会の頑迷な抵抗に遭いもする。その背景にどのような規範があり、権力作用がはたらいているのか。ジェンダーに関する差別や抑圧は、日常にどのように埋め込まれているのか。
本書では、規範や権力作用という視点を軸にして、ジェンダー/セックスや構築主義/本質主義などの基礎概念から、ジェンダー論の核心、ポジショナリティといった新たな概念、それらを個別の問題に当てはめて考えるのに必要な視点までを、豊富な具体例を用いて平易に説く。
また、「差別ではなく区別だ」「女性もほかの女性を差別することがある」「男も「男らしさの鎧」の重圧に耐えていて大変なのだ」などの、男性側が批判を封殺するのに用いるレトリックの欺瞞性や問題点も明らかにする。
女性に無力感を植え付ける男性の執拗な妨害などを「ジェンダーの権力作用」として捉えることで、ジェンダーの考え方に対する理解を促し、ジェンダー論を学ぶ「はじめの一歩」にとどまらず、二歩目、三歩目を力強く後押しする画期的な入門書。
読書メモ
では男性に無関係なものかといえばそんなことはない。男性もまた性別による役割にとらわれていて、ジェンダー論にふれることでそこから解放される可能性がある。そしてそれ以上に重要なのは、男性が女性に対しておこなっている支配──その多くは男女双方に支配とは認識されていない──を男性自身が知ることである。
ジェンダー論自体は、何らかの政治的な言説でもイデオロギーでもない。ジェンダー論は領域横断的な科学であり、 ジェンダー論が明らかにするものは、 社会に存在している事実だけである。しかしジェンダー論が示す事実が人々に突き付けるのは、そのような事実を前に、個々人がどのような態度をとるのかという問題である。
近代社会の諸システムは、基本的にはこの国民国家の発展という大目標のために配置された。官僚制度、教育、市場、生産システム、そのほかにも多くの制度やシステムや思想は、国民国家の発展という目標にとって最も効率がいいものとして発展してきた。近代の大きな特徴である分業というあり方もその一つである。なかでも、最も基本的な分業の一つが性別役割分業と呼ばれるものである。これは、男は外(社会=公的領域)、女は内(家庭=私的領域) と、性別によって主な活動領域を区分する分業である。
人口減少は国民国家にとって、最も危惧すべき事態の一つだ。軍事力と産業力の維持が困難になり、他国との競争に負ける可能性が高まるからである。一方で急激な人口増加も人口爆発を呼び、最悪の場合には飢餓に直結する。したがって、安定的な人口増加を人為的に維持する人口政策が重要になる。こうした観点から、女性は社会のなかでリプロダクションと結び付けられる存在であり続けてきた。女性の存在様態や生活はリプロダクションと育児を基軸にしたものとして再編され、これらが女性のありようを考えるうえで最も価値があるものとして論じられるようになったと思われる。
このようにして、本質主義は人々の感性として一般的なものになる。しかし、本質主義的感性が人々に受け入れられることと、実際に本質なるものが存在しているか否かは関係がない。これは、人々が天動説を信じていたからといって、それが地球の自転には何ら関係がなかったことと同じである。
とはいえ、その感性が多くの人々に受け入れられると政治的パワーを持ってしまう、ってのは悩ましいところだなあ
言い換えれば、ジェンダー研究は本質主義の欺瞞を解き明かしていく営みでもあった。
実のところ「私は本質主義者です」などと思っている人はほとんどいない。本質主義者の多くは「私は一般的な普通の人」だと思っている。役割分業は多くの本質主義的言説を生産する。そのため、近代社会は本質主義的な発想や視点に満ちている。それらは常にバージョンを更新しながら社会のあらゆる場面でフル稼働していて、その結果、われわれは本質というものが存在すると考えるようになる。そうした機序(メカニズム) について構築主義は指摘しているのである。
これらの文化的支配(“こころ”や“あたま”の支配) は制度的支配と同時に実践されるものであり、コロニアリズムにも埋め込まれてはいた。しかし制度的支配体制がなくなっても、この「“こころ”の支配体制」はなくなっていない。むしろその影響度が増す場合もある。制度としての支配はなくなったにもかかわらず、実効的な支配が継続する状況が、現代的な植民地主義=ポストコロニアリズムの特色なのである(6)。
制度的支配がなくなっても文化的支配は残ってしまうことがある、なるほど
現在の性差と不平等は、制度的なものというよりは、このような「“こころ”/“あたま”」の領域に集中している。この点で、ジェンダーと性差別は典型的なポストコロニアルな問題だといえる。
したがって、世に「女性問題」と名付けられている現象のほとんどは、実際には「男性問題」である。問題の根源は男性の思想や行為のなかに存在していて、変更や解決のためには男性の変化が求められる。問題の当事者は男性のほうなのである。しかし「女性問題」と名付けられたとたん、多くの男性は「あ、女性の問題か、おれには関係ないや」と感じるだろう。当事者であるにもかかわらず、男性たちは「女性問題」という名称を聞くことによって自らの問題を捉え損なってしまうのである。これでは問題が解決するはずがない。
これは多くの差別や権力関係についても同様に当てはまる事柄である。たとえば、外国人問題、障がい者問題、沖縄問題、移民問題などと呼ばれるものは、その責任の所在を曖昧にする効果がその呼称自体に含まれている。これらの問題の真の原因は、命名される側ではなく命名する側(名前がない側) にある。本来なら日本人問題、“健常者”問題、日本問題、ホスト社会問題、という呼称こそ事態を正確に表すものである。命名する側がおこなっているのはゲットー化であり、問題を顕在化させないことによって命名する側の利益が継続する。その構造があるため、これらの呼称は公平ではなく欺瞞に満ちたものである。
わかりやすくいえば、「足を踏まれて痛い」という状態と「足を踏んでいるほうも痛い」という状態を、同じ「痛い」という現象として一括りにして同列に論じている、ということである。その「痛み」は文脈も程度もまったく異なるものである。それを同じものとみなして「おれも痛いんだから我慢しろ」というのは、単なる“逆ギレ”でしかない。
ジェンダーを考えることの重要な意義に、女性/男性を問わず、生まれつきと思われていたものの多くが実は社会的に構築されたものであるという視点の転換がある。専門的には「〈自然化されたジェンダー〉の脱-自然化」と表現できる。
私たちが生まれつきのもので不変だと信じているものも、社会的に構築されていて、思ったよりも変化しやすいものであるかもしれない。ジェンダー論が光を当てているのはそのような領域である。これは発想や視点の転換でもあり、一言でいえば「ジェンダーの脱自然化」である。
ドメスティックとは、ある範囲の内側を意味する。ジェンダー論の文脈では、しばしば家族を指す(のちに恋人同士などの親密な二者関係にも用いられるようになる)。つまり、家族や家庭という枠組みを前提に、人々のありようを性によって分ける感覚である。これは、「男は外/女は内」でおなじみのものである。ドメスティック・イデオロギーを少し詳細に言い換えれば、男性は公的な存在、女性は私的な存在ということになる。男性は社会で政治的・経済的・社会的活動を主におこない、女性は家庭内で家事や育児などの生活を維持するための活動をおこなうという性別役割分業を規範的に支えるのがドメスティック・イデオロギーである。
これらの症状はまた、女性たちが個人として認識されないことと関係したものでもあった。当時の女性たちは、親密な誰かとの関係性でしか社会に認識されていなかった。たとえば、「○○さんの奥さん」「△△ちゃんのママ」という具合である。家事労働をこなすことは当然だとして評価されないうえに、感謝もされない。さらに、このような不安や不満を訴える相手もいない、という状況である。アメリカ中の都市郊外の住宅地に、1人でそういった悩みを抱え、誰とも共有できずに分断されている女性が数多く存在していることが発見されたのである。
第2波フェミニズムを象徴する言葉として「個人的なことは政治的なこと(The personal is political)」という有名なフレーズがある。夫にお茶をいれたり、食事を作ったり、男性の発言に対して自説を引っ込めたりという何げない日常の経験こそが「政治的行為」だという意味である。
このような不払い労働はなぜ可能なのだろうか。普通、誰だってタダ働きをさせられれば怒るだろう。きちんと賃金を支払えと要求するにちがいない。しかし家事や育児について、その対価を妻や母が求めたという話はあまり聞かない。この無償化を可能にしているのが、愛情というロジックである。ある行為が労働ならば対価は発生するが、愛情の表現であるならば対価は生じないからである。
愛情という概念が都合よく使われているのだとしたら悲しいな そのためには、近代人は、神の声ではなく、自らの内なる声に従って生きる必要がある。そのような状態をリバティ(自由) という。リバティを自由と訳したのは福沢諭吉だとされるが、神を理由にするのではなく、自らを理由(=根拠) にして生きること、それがリベラルという状態であり、この論理をうまく訳出しているといえる。近代社会では、人々は新たに自我や自己というものを意識することになった。
本章でもふれた第2波フェミニズムの激流は、1970年代にウーマン・リブ運動として社会化した。これは女性解放運動とも呼ばれるが、ウーマン・リブの「リブ」はLiveではなく、Liberationである。つまり女性を解放することは、女性をLiberationすること、リベラルにすることなのである。女性も「内なる声」に従って生きるべきだという運動だった。ウーマン・リブでは、男性の声や家族の声という他者の声ではなく、自分自身の声にだけ従って生きることを、解放と呼んだのである。これは男性たちには許されても、女性は獲得できていなかった生き方だった(この点では男性ははじめから解放ずみだったといえる)。ウーマン・リブ運動も多様なのだが、それを獲得することが運動の基本的な共通点だったといえる。
一般的に、戦争のような非常時には、男性中心主義的価値観が支配的になりやすい。
「女」という存在が生まれつき本質主義的に決定されているのではなく、身体のあり方も含めて事後的に構築されるという視点は、現在のジェンダー論の基本になっている。つまり、女性の身体とは存在ではなく、状況なのだ。
差別ではなく区別であるならば、多少の不自由や不平等を我慢すれば、少なくともみじめな思いをすることはなく、怒りで消耗することもなくなる。このような権力作用は「差別の温室効果」とでも呼べるものである。温室に入れられると、大地に根を張って自由に枝葉を伸ばすことはできないが、「温室内に限る」という制約を受け入れれば、それなりに快適に過ごすことはできる(これは生-権力ともいえるものである:解説5を参照)。区別という発想は、被差別者に対してそのような効果をもちうる。被差別者が差別を受け入れるための逃げ道として、差別者によって準備された概念といえるのである。区別の闇は、思ったよりも深い。
ジェンダーに関わる領域でも、区別という言葉がどれだけ多用されているか、思い当たるのではないだろうか。その他すべての差別と同様に、性差に関わる領域で、「これは差別ではなく区別」という言葉がもし出てきたら、その瞬間に頭のなかでは「差別警戒アラート」が最大限に鳴り響き、赤色灯がくるくる回っている必要がある。
ポジショナリティは、集団間の権力関係とそれが個人的な関係に与える影響を分析する概念として注目を集めている。ポジショナリティは「帰属する社会的集団や社会的属性がもたらす利害関係にかかわる政治的な位置性」「集団間の権力関係が個人的関係に及ぼす権力性を分析する概念」と表現できる。
とくにこの拒否感は、抑圧側のポジショナリティにある人々に頻発する。たとえば男性個人は、生まれる前に性差別などの情報を吟味して男性に生まれることを選択したわけではない(女性も同様)。しかし男性集団に属していることを理由にして、生まれながらに差別・抑圧の側に配置されてしまう。男性にとってみれば、自らの選択が不平等という結果を招いたと批判されるならともかく、選択したわけでもないこと(出生時の性別) のために差別者として批判されていると感じてしまうことは起こりうる。
これはよくある話だと思う
たとえ男性性が複数であろうとも、男性たちが共有している利益が存在することが問題なのである。男性内での集団的利益の分配に偏りがあったとしても、すべての男性にとってその分け前はゼロではない。一方すべての女性はゼロである。
この領域の権力作用は、恋愛─結婚─家族という時間軸の連続性のなかで理解するとわかりやすい。ドメスティック・イデオロギーのもとでは、婚姻によって男性は公的領域での経済的労働、女性は家庭内での維持労働、というように労働力が区分されてきた。婚姻は一面では労働力区分の制度であり、同時に性別役割分業の再生産装置でもある。しかも第3章でみたように、女性の労働力は無償化される。つまり家族とは、女性の労働力を無償化する装置でもあった。この労働力の区分は家族システムの基盤であり、同時に家族は経済的資源(主に男性の経済的能力に依存) の分配システムでもあった。
近代的な家庭・家族というものは、国民国家が目的に基づいて設計したシステムである、と捉えることができる それを正当化・本質化する言説として、母性や母性本能という概念が駆使されてきた。すべての女性には母性本能が備わっているのだから、子どもを産むことは自然なことであり、育児は女性の天職であるという認識である(解説9を参照)。
母性・母性本能という概念について、自分もなんとなく「そういうものが存在する」という感覚を内面化していたところがあったなあ、と自覚した この書籍を読んだことで「ありそう」から「わからない」に認識が更新されたのが収穫
つぎに、これら一連の社会的結合が社会全体のなかでもつ意味や、そのマクロな社会的機能について確認しよう。一般に私たちが家族と呼んでいるものは、正確には近代血縁家族という。近代に特有のもので、メンバーが血縁によって結合している集団という意味である。ちなみに前近代的な感覚では、イエのメンバーは必ずしも血縁者であることを必須としてはいない。前近代のイエでは必要に応じて非血縁者からの養子縁組が頻繁におこなわれており、集団として、イエとしての継続性が最重視されたのである。一方で近代血縁家族では、非親族は排除され、血縁に基づく家族メンバーの情緒的結合が重視される。そのため親子の情や家族愛などの言葉が湯水のように用いられ、家族のイデオロギーが形成されてきた。その背景には、次世代労働力の育成を家族に一任する視点が存在していた。この傾向が強まれば、近代血縁家族のモデルは純化されていき、親と子からなる核家族が生まれる。つまり核家族は、近代血縁家族の究極型でもある。
「家族」と一口に言っても、それが近代血縁家族を指すのであれば、歴史の中でもかなり最近の数十年くらいの期間のものを指すに過ぎないっぽい このように、近代の家族観によって細分化・小規模化された家族は、それまでの地縁を中心にした村落共同体的秩序から解放され、かわりに家族国家の最小単位である国民として統合される。家族は人々の社会的結合のありようを大胆に変質させた、近代的な権力装置である。
このように家族とは、そもそも問題含みのシステムである。したがって、家族には問題があるのが当たり前なのである。ときに「私の家族は仲良しで、何の問題もないです」という人がいるが、これは危険な兆候だといえる。
「家族はすばらしいもの」という刷り込みはありまくる気がするなあ
このメモを書いている 2025-04-27 は街に出ると「母の日!」な雰囲気があって、必ずしもポジティブな気持ちで受け止めている人ばかりではない、ってのは忘れずにいたいと思っている 家族は、女性労働力とリプロダクション、セクシュアリティの編成に関わるイデオロギーであり、制度である。家族について悩む人は多いが、それは理想の家族という、ある意味で達成不可能な規範にとらわれているためである。とくに現代では、近代血縁家族は構造的にその達成が不可能なものになりつつあり、葛藤を抱えるのは当然であるということを理解すれば、少しでも主観的に感じている負担を減らせるのではないかとも思うのである。
近代家族に求められる重要な役割の一つは、次世代の労働力育成だった。この育成に関わる労働は女性に無償労働として課されてきたが、それを正当化してきたのは、育児は女性の天職であるとする本質化言説、すなわち母性(愛) 神話であった。
そして長らく、母性は育児以外の女性の行為規範の根拠にも援用されてきた。それは介護である。近年は育児と介護をケアという概念で統合的に捉えることが多いが、ケアもまた“弱い存在”を目の前にして、それをケアせざるをえないという感情が自然とわいてくるといった母性神話を利用して、女性に適した役割・仕事として女性に割り振られてきた歴史がある。
母性神話の話が介護などのケアの領域に接続するの、なるほどなあ この議論は、現実に当てはめれば理解するのがそれほど難しいものではない。ホームパーティーの事例では、夫の「歓待したい」という願望を妻が自らの願望として模倣することによって、それは妻自身の願望に置き換えられ、自律的な歓待であるかのように考え、自身を納得させる。あるいは夫や彼氏のアウトドア趣味などを、いつの間にか自らの趣味にしている女性。付き合う男性の服装の好みが、あたかも自分の本来の好みだったかのように感じる女性。それまでは淡白な味付けが好みだったのに、親密な男性の脂っこい味付けをいつの間にか自分の好きな味だと感じるようになる女性。これらはすべて、譲渡と模倣の結果である可能性が高い。女性は男性の願望を自ら模倣することによって、自律的な存在であるかのように振る舞い、自尊心を守り、自らを欺くのである。
少数の成功者がいることは集団的な差別や抑圧の存在を否定しない。しかし現実には、そのように抑圧を否定する被抑圧者は、一人でもいれば政治的効果を発揮しうる。「成功している女性もいる」という言葉で女性全体が置かれている状況をごまかすことに利用されるからである。
一枚の葉を見ることと、森を見ることは、しっかりと切り分けて考えなきゃだよな
女性にこのような劣等感を植え付けるためには、女性を徹底的に絶望させなくてはならない。どれほど現状に不満があり納得していなくても、現状を変える力は自分にはないと思わせる必要がある。あらゆる手段を用いて希望を打ち砕き、どのような状況変更への試みも功を奏しないという確信を女性たちにもたせなければならない。本質主義言説や自然化言説、区分論などはこのような目標のために威力を発揮してきた。
これは真正性の欠如という状態である。真正性(authenticity) とは、自分の感覚や考えが当然で正当なものであるとし、それに基づく選択や行為を肯定的に捉える確信や感覚のことである。真正性は、男性の場合には十分に保持されていることが多いが、女性はミソジニーや劣等感を埋め込まれているために、男性に比べて獲得しにくいと論じられている(Miller, 1986=1989)。
男性に比べて女性は真正性を獲得しにくいというの、ぼくの肌感とも一致している