自分も他人も同じ基準で捉える
(A) 自分に甘く、他人に厳しい
(B) 自分に厳しく、他人に甘い
この 2 つの類型を見かける。
(A) の属性は、物語における「悪役」のポジションの人物に付与されているのをちょくちょく見かける。たとえば「いや〜な上司」として描かれる人物は、自分はどこまでも楽をしようとして、部下には無茶なお仕事を押し付けたりする。わかりやすく「よくない」属性として描かれることが多い。
ぼくの身近なところでは (A) な人間を見かけることはぜんぜんないのだけれど、他方で (B) な態度はそこそこ見かけることがある。他人の無知を責めるつもりのない人が「無知で申し訳ないんですが」と言ったりするのを見かける。もしかしたら、定型句コミュニケーションなだけかもしれないけれど。 ぼくは今のところ、
(C) 自分も他人も同じ基準で捉える
がよいのではないかと考えている。「基準はシンプルで明確な方がよい」という命題を真だと思えるのであれば、自分と他人に同じ基準を適用するのはよいことであろう。
「基準が曖昧」のデメリットは大きくて、両親や上司や先輩など自身の身を預けている相手が明確な基準を示してくれない場合、顔色を伺う行動が強化されがちになる。「物事の良し悪しを気分で決める」「言っていることがコロコロと変わる」そんな人物を想像してみると、あまりポジティブな印象は抱かないであろう。だからぼくは基準を明確にすべく (C) な方針を採用している。
(A) は「好ましくない」という合意が形成されやすいように思うが、(B) は「ストイック」「腰が低い」などのラベルとともに美徳として捉えられることも多いように思う。そこで (B) のデメリットについて書いてみた。どちらもダブルスタンダードである点においては同じなのだ。 (C) を採用しようと思うと、必然的に「自分として、これはよい、これはよくない」を明確にしていくことになる。相手の顔色を見て決めるのではなく、自分の頭で考えて行動していくことになる。そこに大きな意義があると考えている。
ぼくは「自分に寛容に、それと同じように他人にも寛容に」という方針でやっていきたい。