自分がされていやなことはしない、の限界
私たちは小学校で「自分がされて嬉しいことを、相手にもしましょう」と教わってきた気がするのだが、この教訓には落とし穴がある。だって、痛みを感じたときに欲しいものが、人によっては全く違うんだ。しかしそんなこと、小学校では教えてくれなかった。
ぼくも生きている間に何度か同じようなことを考えた。自分がされていやなことはしない、ってのはいいとして、自分がされていやじゃないことはすべてオッケーともならないのが難しいと思う。家族といっしょに暮らしていると、自分としては非がないと思える状況でも相手には「こういうことはやめてほしい」と言わせてしまったりする。
だからぼくは「自分がされていやなことはしない」を過度に重視しないことにしている。大事なのは「相手がいやがることをしない」であるはずだ。そのためには「自分と相手はちがう」という前提に立ち、自分の中にない情報を相手から引き出す必要があるだろう。逆もまた然りで、相手が持っていない情報は自分から伝えていかねばならない。「自分は、こういうのはいやです」と。
これに共感できる人は100%やさしい人説。
配達の人がその場を去ってから施錠する、そうじゃなければ施錠の音を聞かせてしまうからだ。という話が展開されている。
「これに共感できる人はやさしい」という主張に、ぼくは賛同しない。「相手を思いやる」と言えば聞こえがいいけれど、相手の気持ちを「こうであるはずだ」と決め付けてかかる態度は感心しない。ここで言えるのはせいぜい「自分は、自分がそうしてほしいと思っていることをしている」までだろう。相手の気持ちを決めつけるような態度に、ぼくは「やさしい」というラベルを持ち出すことはできない。