臨場性が必要とされる理由
人と人が出会うこと。その場に居合わせること。ライブであること。face-to-faceで話すこと。これらをさしあたり「臨場性」と呼ぼう。私がコロナ禍の渦中で目をこらしてきたのは、こうした「臨場性」の価値のゆくえについて、であった。
私の考えでは、臨場性が必要とされる理由は、以下の通り3つある。
① 臨場性は「暴力」である。
② 臨場性は「欲望」である。
③ 臨場性は「関係」である。
暴力、欲望、関係。ひとつめに「暴力」を置いているのがおもしろいと感じた。刺激的な言葉で、目を引く。 そういえば十二鬼月の上弦の参である猗窩座は「赤子ですら薄い闘気がある」のに背後に迫る炭治郎の闘気を感知できず驚愕するわけだが、本稿での「暴力」は、この「闘気」にほぼひとしい。「普通に生きること」のあらゆる瞬間に闘気=暴力が満ちている。この意味での暴力の否定は、ほとんど人間の否定にひとしい。
突然の『鬼滅の刃』で笑ってしまう。しかも直接的に「鬼滅の刃」とは書いていなくて、猗窩座の描写を持ってくるところがすごい。ちゃんと原作を読んでいる人じゃん。 私は発達障害当事者ではない(たぶん)が、ドナの感覚は共感的に理解できる。「優しさ」もまた暴力であるということ。どれほど慈愛に満ちた、優しげな他者であっても、私の自我境界——ATフィールド?——を超えて接近してくる他者は恐ろしい。それは私がその他者に好意を持っているか否かとは無関係だ。むしろ、好きだからこそ恐ろしい、ということもある。もっとも、そうした恐怖は瞬時に揮発するし、その後は親密さの暖かい感情が回復されもするだろう。だから私は、そんな恐怖などまるで感じていないかのように振る舞える。それはたぶん成熟のおかげなのだが、しかしそれでも、私の成熟はこの恐怖を完全に消してはくれなかった。
人と人が出会うとき、それがどれほど平和的な出会いであっても、自我は他者からの侵襲を受け、大なり小なり個的領域が侵される。それを快と感ずるか不快と感ずるかはどうでもよい。「出会う」と言うことはそういうことだし、そこで生じてしまう“不可避の侵襲”を私は「暴力」と呼ぶ。再び確認するが、この暴力はいちがいに「悪」とは言えないし、あらゆる「社会」の起源には間違いなく、こうした根源的暴力が存在する。暴力なくして社会は生まれない。
われわれは、たった一人では自分の欲望を維持することができない。ラカンの最も良く知られたテーゼ「欲望は他者の欲望である」はかなり多義的な言葉だが、つまるところはそういうことだ。欲望の起源は他者である。
他者との出会いがないままで過ごしていると、しだいに欲望が希薄になり、その宛先が曖昧化してしまうという臨床的事実がある。たとえば多くのひきこもり当事者が、そうした経験を語ってくれる。何年もひきこもり続けていると、自分の欲望がわからなくなり、まったく消費活動をしなくなってしまう人が少なくない。
そこそこ快適にひきこもってはいるものの、何となくやる気がわかない、気合いを入れようにも踏ん張れない、という声をしばしば聞く。なにより私自身がそんな状態になっている。こうした無気力さの原因、少なくともその一部は「他者の不在」によるのではないか。これまでの議論をふまえ「他者の暴力の不在」と言ってもよい。
欲望の起源は他者であるとして、欲望の活性化をもっとも促進してくれるのは暴力だ。もう少していねいに言い直すなら、「臨場する他者からの、ほどほどの暴力」ということになる。
おもしろいなあ。先ほどの化学のたとえを引っ張ると、結合エネルギーを想像したくなる。 オンラインでは完結できない領域とは何だろうか。少なくとも「関係性」が重要な意味を持つあらゆる領域は、今後も臨場性が必須となるだろう。性関係はもとより、治療関係、師弟関係、家族関係、などがそれにあたる。言い換えるなら、関係性よりもコミュニケーションが意味を持つ領域では、臨場性を捨象するほうが効率化されるため、オンラインで完結できるだろう。おわかりの通り、関係性とコミュニケーション(情報の伝達)はまったくの別物であり、私からみれば、ほとんど対義語ですらある。
対話と関係性が実現するため、すなわち非対称性を実践するためには、そこに身体を持ち寄ること、すなわち「臨場性」が欠かせない。なぜか。人間関係の非対称性は、身体抜きには成立しないからだ。よもや誤解する人はいまいが、それはたとえば「身体の大きさ」「力の強さ」「顔の美しさ」が優っている人が常に上位になる、という意味ではない。そこには常に「にもかかわらず」が介在してくる。身体的に優位である「にもかかわらず」、関係性において劣位になるといった事態が。
そうそう、臨場性のお話が展開されていく中で「これ、身体性と関連しそうだな」って思ったのよね。 そうした差異を前提として、苦痛や感情が共感され、文脈と意味が共有されること。そうした共振れは、有意味な対話の成立にはほぼ不可欠なのだが、オンラインではそれができない。オンラインで楽器のセッションがきわめて困難なのは、微妙な時差のほかに、音響空間が共有されないためでもある。それとほぼ同じ意味で、対話においても臨場性が強く要請されるのだ。
「オンラインではできない」にはぼくは懐疑的なスタンスをとる。明言できるのはせいぜい「2020 年 5 月現在、私はオンラインでそれを実現する方法を知らない」までだろう、と思う。わかりやすいところでは、やはり AR・VR に代表されるような XR があって、テクノロジによって身体性が拡張された未来であれば、今よりもっともっと多くのことがオンラインで実現するようになるだろう。ぼくはそう考えている。 「元のような日常」の回復。私とてそれを望まないわけではない。そこには暴力的なまでの効率の良さがあり、暴力的な悦びがあり、暴力の痛みによって賦活される欲望があった。しかし、まさにそれが暴力であるがゆえに、「臨場性」に苦痛を覚える一定数の人々がいると言うこと。
「暴力によって物事を効率化する」という感覚、自分は無自覚だったなぁと思う。知らなかったわけではないけれど、明確に意識せずにここまでやってきたと思う。「いろいろと考えなきゃいけないことはあるけれど、とにかくこのタスクを前進させたい」というときには、イエス・ノーの二択よりは自由記述のテキストを、テキストよりはボイスチャットを、ボイスチャットよりはビデオチャットを、ビデオチャットよりもオフラインでの顔を合わせての対話を、選択してきたように思う。これ今日のうちに進めちゃいたいんで、ちょっと話せませんか?みたいなやつ。
そして、その苦痛に対しても幅広い認容性のグラデーションがあると言うこと。だから、私にも共感可能なその苦痛を、異常で病的なものとして単に排除——治療対象とする、など——すべきではない。私は私の「痛み」を排除したくない。すべての痛みは哲学的に正当/正常である。
多様性についてあらためて考えるきっかけを与えられながら、件の文章を読み終えた。おもしろかった。