構築主義と本質主義
社会構築主義(しゃかいこうちくしゅぎ、英: social constructionism)とは、ある事柄に対して、社会的に作られたものと考え、それを変更可能だとみなす立場。構築主義とも呼ぶ。逆に、ある事柄に対して、変更不可能な性質だと見なす立場を本質主義と呼ぶ。例えば「男女差」を、「生物学的なモノ」と考えるのは本質主義、「社会的に構築されたもの」とするのが社会構築主義的な考えである。
ある事柄に対して、社会的に作られたものと考え、それを変更可能だとみなす立場
ある事柄に対して、変更不可能な性質だと見なす立場
社会的構築主義に立つ理論家にとって、社会的構築物とは、それを受け容れている人々にとっては自然で明白なものに思えるが、実際には特定の文化や社会で人工的に造られたにすぎない観念を指す。
自分は、大半の事柄に対して構築主義寄りの考えで接しているように思えるなあ。 日本語における「人間」「世間」という語彙はそれぞれ「人の間」「世の間」という漢字構成になっており、物事は関係性によって規定される、というニュアンスをふんわりと含意しているように感じられておもしろい。ある意味で構築主義的な考えを内容している言語と言えるかもしれない。 本質主義(ほんしつしゅぎ、英: essentialism)とは、本質(事物の変化しない核心部分)を自立的な実体、客体的な実在物であるとみなした上で、個別の事物は必ずその本質を有し、それによってその内実を規定されている、という考えをいう。
さらに具体的に、社会科学や政治的な議論において、一定の集団やカテゴリーに、超時間的で固定的な本質を想定する立場を指していうことが多い。
事物とその本質との関係は客観的で固定的なものであり、個物は本質の派生物、あるいは複製としての側面を持つものとみなされる。
Wikipedia の本質主義のページにはテセウスの船についての言及があり、なるほど、本質とはなにか?というのはけっこう重大な問いなのだなあ。ぼくも暮らしている中で「本質的には〜」と言うシーンはあるが、そんなに簡単に語れるものでもないとの思いが強くなってきた。