根無し草のコンプレックス
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これまでに住んできた市区町村に記してあるように、ぼくは生まれてから今日に至るまで住む場所を転々と変えてきた。子どものころは親の仕事の都合で転勤があり、それにあわえて転校を繰り返していた。大人になってから蒲田エリアには 10 年近く住んで、ぼくの人生でもっとも長く滞在したエリアになっている。 今はカウントダウン生活という取り組みをやっていて、10 年間で 5 ヶ所に住むぞ〜という計画の第一弾で那須塩原市に住んでおり、もうすぐ第二弾の場所へ引っ越すところだ。相変わらずの根無し草である。風まかせ、諸国漫遊記。自分が 5 年後にはどこに住んでいるのか、現時点では見当もつかない。 この人生を気に入っている。日本国内に留まってはいるが、それでもさまざまな場所を渡り歩いていると気付くことはたくさんある。視点が変わることで自分の中の偏見や固定観念に気付けることもある。こうやって転がりながら生きていくことで、もっともっと自分の、あるいは妻も含めた自分たちの、価値観の輪郭を発見しながらやっていきたい。
世の中に合わせ行動を軽々しく変える人は結局成功しないとの警句。
英語のことわざ"a rolling stone gathers no moss"の翻訳(明治期)。意味としては、英国式の「世の中に合わせ行動を軽々しく変える人は結局成功しない。」とするものと、米国式の「世の中に合わせて、柔軟に行動が変わることにより、失敗を避けることができる。」の相反する2通りの解釈があるが、日本のものは、英国の解釈によっている。
解釈次第ではあるが、なかなか怖いことが書いてある。願わくば、ひとつの場所に留まることなく転がり続ける自分の人生を、肯定的に捉えてあげたいものだ。転がり続けるからこそ得られるものがあると、いつでも胸を張って言える自分でいたい。そのためにも毎日をナイスに過ごしていこう。
年齢が 30 代後半になった頃から、素直に「そこにあるものを大切にする」を実践できるようになってきたと思う。遠くの景色に憧れるのもいいけれど、家族や、近くにいてくれる友人知人、これまでに手にしたものたちを愛でるのも幸せなことだと強く感じるようになってきた。
「そこにあるもの」の代表例に「住んでいる地域のこと」があるだろう。ぼくは 2019 年の秋以降、そのときに自分が住んでいる地域としっかり向き合って暮らそうと考えるようになった。今日まで大事に持ち続けている考えだ。
最寄りのコンビニの店員さんたちはいつも親切にしてくれる。自宅近くのとある営業所のお兄さんたちとも顔なじみになって、顔を合わせるたびに雑談をしているし、昨年末には今年のカレンダーもいただいた。お気に入りの飲食店も、カフェも、公園も、温泉も、たくさん見つかった。自分たちなりに楽しく過ごせていると思う。
自分たちで決めた次の引っ越しだけれども、この地を離れることにさびしさを感じているのはたしかだ。妻とも「ずっとここに住むことにしてもいいんじゃない?」と話したりしている。あちこちを見て回ったあとに那須塩原の方に戻ってくるパターンはけっこうありそうだ。
特定の地域に根を下ろして継続的に活動している人を見ると「かっこいいなあ」と感じる。
どうにも「ひとつの場所で、長く活動する」を自分がやっていくイメージが浮かばなくて、実践できている人に対する強烈な憧れのようなコンプレックスのような感情があるように思う。少なくともカウントダウン生活の中に身を置いているうちは、物理的に特定の地域に根ざすような活動には長くは関われないだろうか。いつか、自分の人生において、ここだ!と思えるような地域での活動を始める日はくるのだろうか。 強い憧れを自覚するようになったのが最近なので、直近 3 年ほどの「地域と向き合う」スタンスを経て、ようやくそういう感情を抱けるところまで進んだということなのかもしれない。