悪魔の代弁者
ちなみに、「悪魔の代弁者」という用語は、ここで紹介されているジョン・スチュアート・ミルの造語ではなく、元々はカトリック教会の用語でした。カトリックにおける列聖や列福の審議に際して、あえて候補者の欠点や証拠としての奇跡の疑わしさなどを指摘する役割が「悪魔の代弁者」として正式に設定されていたんですね。ちなみにこの役割は1983年に教皇ヨハネ・パウロ2世によって廃止されています。
自分の意見に反駁・反証する自由を完全に認めてあげることこそ、自分の意見が、自分の行動の指針として正しいといえるための絶対的な条件なのである。全知全能でない人間は、これ以外のことからは、自分が正しいといえる合理的な保証を得ることができない。
それは、自分の意見や行動にたいする批判を、つねに虚心に受けとめてきたからである。どんな反対意見にも耳を傾け、正しいと思われる部分はできるだけ受け入れ、誤っている部分についてはどこが誤りなのかを自分でも考え、できればほかの人にも説明することを習慣としてきたからである。ひとつのテーマでも、それを完全に理解するためには、さまざまに異なる意見をすべて聞き、ものの見え方をあらゆる観点から調べつくすという方法しかないと感じてきたからである。じっさい、これ以外の方法で英知を獲得した賢人はいないし、知性の性質からいっても、人間はこれ以外の方法では賢くなれない。
ケネディがあの時、「悪魔の代弁者」の投入を決めていなければ、今日のような世界の繁栄はもしかしたらなかったのかも知れません。昨今、本来であれば頭脳優秀な人材が集まっているはずの大企業が噴飯ものの不祥事を続発させていますが、このような局面だからこそ、私たちは重大な意思決定局面における「悪魔の代弁者」の活用について、もっと積極的になるべきだと思うのです。