存在してほしいか、機能してほしいか
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自分は配偶者に対しての「◯◯をしてほしい」という欲求が、もっといえば「わたしのために◯◯をしてほしい」という欲求がぜんぜんないっぽくて、もうちょっとあった方がいいのか…?と思ったこともあるくらいだった。
まず小さなスコープから考えてみると。「料理をしてほしい」と思うか。これは完全に No だな。やりたい人がやればいい、としか思っていない。家事全般がそう。お料理・お掃除・お洗濯などなどについて家庭内で「べき論」を発生させないように注意を払っているくらいの現状。 ちなみに、出会ってちょっと経ったころにお料理をふるまってもらったことはあって、それはうれしかった。やってもらえたらうれしいし感謝もするけれど、こちらから要求するようなものではない。また、渋々やるのだとしたら感謝の念も薄れるというか、逆に押し付けがましく感じてしまってつらくなるパティーンもあると想像する。
自分の配偶者に対するスタンスを書き出してみると、こんな感じかなあ。
存在してくれることがありがたい
なにかしらの機能を求めていっしょに暮らしているわけではない
結果的に「機能に感謝する」ことはあるが、その機能がなくなったとしても不満には思わない
たとえば「夫婦でいっしょに行動していると警戒されにくい」という社会上の特性があるとは感じているが、そのために配偶者にいっしょにいてもらっているわけではない
家族や友人に対して特定の機能を求めていることはないんじゃないか、という気持ち。
それとは別に「なんらかのプロジェクトをやるぞ」というシーンでは「デザインできる人にいてほしいな」と機能を求めることはある。「家族や友人」のような直接的な人間関係と「プロジェクトメンバー」のような目的を介した間接的な人間関係で、期待することを使い分けていると言えるかもしれない。
今回はためしに「存在」と「機能」という二軸での整理にトライしたけれど、これもゼロイチじゃないだろうし、現実はもっと入り組んでいて複雑だろうとは思っています。それでも、自分の認識を少しは整理して自覚できた感触です。