マッチメーカーの近現代史から見る社会の変遷
「仲人」の近代史から、「事実婚」と「夫婦別姓」、そしてマッチングアプリまで、家族社会学の視座から研究を重ねてきた阪井さんは、「昔はお見合い、近年は自由恋愛」といった単線的な捉え方に疑義を呈します。
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仲人と聞くと、戦前の家制度と関わる「前近代的な存在」をイメージするかもしれない。しかし、戦後に「恋愛結婚」が急増し「見合い結婚」が減少するなかでも仲人はその形や機能を変えつつ存続し続けた。結婚の8割以上が恋愛結婚となった1990年に至ってもなお8割以上のカップルが結婚式には仲人を立てていたのである。まずは、近代日本における仲人の隆盛と衰退という現象について論じていこう。
1990 年というとぼくはすでに生まれているわけだが、仲人は概念を知っているくらいで、身近に感じるような瞬間は一度もなかったな〜。自分の結婚のときにも仲人についてはなにも考えなかった。話に登場しなかった。 仲人の媒介による結婚が広く浸透するのは近代化以降のことであり、その過程で夜這いなどの婚姻風習は「野蛮」という烙印を押され排斥されていった。明治政府は、武家社会の儒教道徳を基盤とする「家族主義」を重視し、仲人を媒介とする結婚を規範とした。儒教的な家族道徳により、父母の発言力が増し、個人よりも「家」が重視されていく中で、若者同士の自由な結婚は否定されるようになる。夜這いは野蛮とされ、仲人のいない恋愛結婚は、「畜生婚」や「野合」などと呼ばれ蔑みの対象となった。武家社会で確立していた仲人という「伝統」が近代化を進める中で再発見され、国家統治に活用されたのである。
なるほど。このあたりの道徳とか規範あたりのラベルがつくものも、自然発生的ではなく、おおいに人工的なものに見えてくる。伝統ってやつは都合よく利用されがちだな、との印象が強くなる。 大正時代になると、恋愛至上主義が隆盛する。ただし、その言説を追ってみると、恋愛が「正しい恋愛」と「正しくない恋愛」に区分され、そこでは「自由恋愛」が否定されていたことが分かる。
(中略)
すなわち、男女交際や配偶者選択は近代以降に「自由」が奪われてきたことがわかる。人々の結婚や家族観も、個人よりも国家への忠誠に基づくものになっていく。
大正浪漫!どんどん自由度が上がっていったのかな、という漠然としたイメージを持っていたが、ちがうらしい。
特に1959年の皇太子の「ご成婚」は恋愛結婚ブームを生み、恋愛を蔑視の対象からあこがれの対象へと変えるきっかけになった。
へぇ、おもしろイベント。
その中で、結婚のきっかけは従来の「地縁」から「職縁」へと変化する。当時の職縁結婚は当事者の意識としては恋愛結婚だったとしても、「企業によって身元保証された男女」が帰属意識の高い集団のなかで配偶者を見つけるというかたちをとった。
地縁と職縁という整理は明快でわかりやすいと感じた。マッチメーカーが地場から職場になった、と。 仲人割合が過半数から1%まで激減する1995年から2005年の10年は、平均初婚年齢に鑑みれば、おおよそ「ロストジェネレーション」と呼ばれる世代の結婚コーホートだといってよい。
たった 10 年間で一気に絶滅に向かっていて、すごい変化だ。当時、このトピックについて意識的だった人々 (ぼくはそうではなかった) は「変化の時代だ」と感じたのだろうか。
このようにみれば、「仲人の消滅」という現象は、単なる古い慣習の衰退としてのみとらえられるものではなく、人々の帰属集団や結婚観が変化するなかで生じた現象だといえるだろう。
この文章の主題がわかってきた。
90年代以降、配偶者選択における「自助努力」の重要性が高まり、2000年代には「婚活」という言葉が急速に社会に浸透していった。そして、近年ではインターネットが新たなマッチメーカーとしてその存在感を増している。
村落→家→会社→マッチングアプリ。マッチメーカーがそのように変化してきた、という見方ね。 2022年11月に明治安田生命が発表したアンケート調査では、同年結婚した夫婦の「出会いのきっかけ」はマッチングアプリが22・6%のトップに躍り出た。
ぼく個人の肌感としても、周囲でマッチングアプリを活用している人はずいぶん増えたと思う。 一つには、マッチングアプリでの出会いが「正しい出会いではない」という社会意識の存在がある。例えば、結婚披露宴では「マッチングアプリで出会った」と言うのをためらう状況があるという。社会的に認められた「正しい出会い」に照らして、逸脱的な出会いとみなされているようだ。
なんか、そういう空気があるのはわかる。ぼくは楽観的に「隠すことないのに」と思っちゃうけど、両親や祖父母の世代に配慮して〜ということであれば理解はできる。
だが、歴史を振り返れば、出会いの「正しさ」をめぐる社会規範は変化し続けてきた。すでに述べたように、仲人を立てた見合い結婚こそ正統だった戦前は「恋愛」自体が恥ずべきことだった。反対に、恋愛結婚が理想化された戦後には、見合い結婚は個人的魅力の欠如の表れとみなされ、見合いを「恥ずかしい」と感じる人が増加した。それゆえ、たとえ出会いのきっかけが「見合い」でも「恋愛結婚」と語る人も多かった(阪井 2021参照)。90年代以降になると、「合コン」が普及するが、現在でも結婚披露宴では「友人の開いた食事会」(間違ってはいないものの、あくまで「偶然の出会い」を装う意図が感じられる)という慎重な表現が用いられたりする。このように、たとえ「リアルな出会い」であっても常に「正しい/正しくない」の境界線は存在してきたのであり、デジタル化が進行する社会において、マッチングアプリが今後その存在感を増していくことは不可逆的な現象と考えるべきだろう。
人間は一世代前のスタンダードを「正しい」と感じがち、ということか。そして結婚には一世代前や二世代前の人々がステークホルダーとして関わることが多々あるから、その感覚を無視するのがむつかしいのだろう。 4.マッチングアプリが及ぼす社会的影響
(1)既存の価値観の補強
(2)偶然性の排除
(3)コミットメント・フォビア
なるほど、ぼく個人としてはまともに考えたことがなかった。パートナーシップ以外の文脈にもおおいに関わってきそうなトピックに見えるね。 真の問題は、人々のつながりに国家が介入することにあるのではなく、つながる手段が「恋愛関係にある男女の結婚」という一つのオプションしかないということにある(阪井 2022も参照)。
だんだんとそうじゃない選択肢が受け入れられるようになってきている感覚もあるが、問題意識はわかる。よく阿佐ヶ谷姉妹さんが事例として持ち出されていて、ああいう共同体がもっともあってもいいよな、と思う。ぼくも現在はたまたま特定の相手とパートナーシップを結んでいて、それが日本という国家において法的効力も有するものだけれど、それはそれとして、コミュニティと呼んでいるような共同体のいくつかにも属している感覚がある。 日本も「結婚、さもなければ孤立」といった現状の制度を改め、こうしたグラデーションのある制度設計を目指すべきであろう。個々人の生活上のニーズが多様化している現在、既存の婚姻制度の中だけに権利を束ねるのは限界を迎えている(ブレイク 2012=2019)。セクシュアル・マイノリティはもちろんのこと、例えば二人のシングルマザーが友人同士で共同生活をするという選択があってもよいだろう。今や、恋愛や性的関係に基づかない高齢者同士による共同居住や、高齢者や若者、シングルペアレントなどが住宅をシェアして生活の充実化・効率化を図るという実践例も珍しいものではない。個々人の多様な信条とニーズに対応した、パートナーシップの選択肢を社会が用意しなければならない。
方向性に賛成だな、と思いました。
2023-03-12 に公開されたエピソードで奥田和志さんが「こういう共同体をつくりたい」みたいな話をしていて、それとも関連を感じたのでリンクしておく。 https://open.spotify.com/episode/5ztt7CBWXvBxjMCGeagAVg