テクノロジと知識でつくられるグッドな体験
たとえば誰かといっしょにランチを食べる予定があるとき、ぼくは前日の夜か当日の朝くらいに、ランチ相手の最近の動向を軽くチェックすることにしている。ブログの最近の記事や各種ソーシャルメディアに投稿された内容にさっと目を通しておく。
そもそもフィードリーダを常用していることもあって、ランチの予定がなくても身近な人々のフィードは更新から 3 日間以内にはだいたい目を通している。 そうしてランチ会が始まれば「最近、◯◯をやっているんですね〜」「ツイートしていた◯◯、ぼくも見ましたよ、あれおもしろいですよね〜」と話題にあげていく。相手が発信している話題に乗っかっているので空振りするリスクが低いし、ゼロから話題を探さなくてもいいので考えるコストも低い。場を盛り上げる手法としてコストパフォーマンスがよいと感じていて、もう 10 年以上は実践してきたと思う。 幸いにして、こういった実践に対してポジティブな評価をもらえることがあるんだけど、ときには「実践」や「行動」ではなく「大和田純」という個人の性格やパーソナリティを評価されてしまうケースがあり、その度に少しもどかしい気持ちになったりする。 ぼくはたまたまソーシャルメディア全盛の時代を生きており、それらを支えるウェブ技術が大好きで、テクノロジをうまいこと活用すれば個々人の最新情報を簡単にゲットできることを知っている。あわせて、人々は自分に興味を持ってもらえるとうれしい気持ちを抱くことが多いという心理も知っている。テクノロジとテクニックを知っているから、相手によい体験を提供できている、と自分では捉えている。このとき、ぼくが「いい人」であるかどうかはあまり関係がないとも思っている。 「〇〇様、いらっしゃいませ。お越しいただくのは、1年ぶりですね!」
旅館に到着し車を降りた瞬間、自分の名前を呼ばれたら、誰でも嬉しいものです。
とある有名なホテルには、何千人、何万人もの顧客の顔と車のナンバー、さらには食の好みまで覚えているという伝説のドアマンがいたそうですが、決して誰でも真似できることではありません。
しかし陣屋では、接客担当の誰もがこのようなお出迎えができるようになりたいと考え、IoTを活用することで実現したのです。
ぼくは技術職だからか、テクノロジやテクニック、スキルのようなものに高い価値を見出す反面、人間社会における「人のよさ」「思いやり」「やさしさ」「気持ち」の類をそれ単体では評価保留にする傾向があると自覚している。「◯◯さんは、やさしい人です」のように誰かを紹介されたとして、客観的にそれを感じることは難しいからいきなり鵜呑みにすることはできない。でも、まとまった時間をともに過ごせば「人の話を聞き出すのがうまい」「観察力が高くて、困っている人がいたらすぐ気がつく」のようにスキルを通じて魅力を理解することはできる。 どれだけ「人を楽しませたい」「人を癒したい」といった気持ちを持っていても、周囲からその気持ちを直接的に観測することはできないし、必要なスキルや知識が不足していれば望みが叶わないことも多い。心構えは技能の代用にはならない。無知な善意によって悪いことが引き起こされてしまうことさえある。だからぼくは、自分の心の拠り所を「気持ち」に求めない。テクノロジやテクニックやスキルや知識に軸足を置くスタンス。 関連しそう