スーツを着ずに働けるのは魅力的だと思った
自分個人の「こう思う、こう感じる」なんてのは世界全体から見ればほんの些細なことで、だいたいがどうでもいいことだと思う。そんなわけで、ぼくは「時代の流れ」「世の中の流れ」をすごく気にしながら暮らしていると思うし、流れに逆らって消耗するのはイヤだから、流れに身をまかせて流されるように生きている。
生まれるのが 30 年ほど早かったら、喫煙所コミュニケーションのために喫煙していたかもしれない。お仕事を円滑に進めるためには飲み会は大事、飲みニケーションだ、と主張していたかもしれない。男たるもの男らしくあらねば、という考え方に疑いを持つこともなかったかもしれない。生まれるのが 300 年ほど早かったら、奴隷という身分の存在を疑いもせずに受け入れていたかもしれない。そんなものだと思う。生まれた時代、生まれた場所、生まれた環境の上に自分の考えが成立している。そんな頼りない感覚。 そろそろ自分も会社員になるんだな、という時期に。スーツを着ずに働けるのは魅力的だと思った。かれこれ 14 年前くらいの話。ソフトウェア業界に身を置く我々は、より古くから続いている業界に対して「新しい働き方」という武器で戦いを仕掛けて戦果を挙げてきたところがある。好きな服を着て働けばいいじゃん、好きなときに働けばいいじゃん、好きな場所で働けばいいじゃん。ぼくもその恩恵を受けながら今日までやってきた。 より古い対象を選べば「新しさ」でいくらでも勝つことができる。旧態依然とした組織だとこうだぞ、伝統的大企業だとこうだぞ、といくらでもアピールできてしまう。しかし自分の会社員歴が 14 年近くにもなってくると、気になるのは自分たちよりもっと新しいプレイヤーのことだ。 自分にとっての「スーツを着る」に当たるようなものが、今の 20 歳くらいの人にもあると思う。今のぼくにとっては「お仕事をする上で、これは大事」と感じられるものが、次の世代の人々にとっては「そんなの別にいいじゃん」となっていたりもすると思う。自分がなにかについて「いやいや、これがないと困るよ〜」と思うとき、はたして自分は流れに逆らう側になってはいないか、といつも気になってしまう。望んでいても望んでいなくても、生きてきた年数が長くなればなるほど多かれ少なかれ権威を帯びてしまうところがあって恐ろしい。 今の自分が大事にしている A があるとして、それが自分や自分たちにとってどれだけ大事かってのも重要な軸なのだけれど。それはそれとして「別に A なんてなくていいじゃん」と主張するプレイヤーが世の中に存在して、それに魅力を感じる人々がいるのなら、生き残るために A を捨てることも検討した方がいいのだろう。
ひとつひとつのことについて「本当に?」と考える習慣は、可能な限り維持していきたいと思う。