ぼくがウェブに触れて感じてきた豊かさ
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数年ぶりかな、とにかくひさしぶりに「好きなウェブサイトだな」という手触りを得た。
そういえば、個人ウェブサイトってのはこういうものだったな、と記憶の奥にあった扉が開くような感覚があった。 ぼくが小学生のころ、手の届くところにあるメディアといえばテレビ、ラジオ、新聞、雑誌、書籍、カセットテープくらいだっただろうか。ひとつひとつをある種の競技とみなすならば、競技の数は少なくて、各競技では戦い方がもう決まっていて、そこに適応したものだけが生き残っていける、存在していける、そういうものだった。 Web 2.0 だブログブームだと盛り上がった頃に、ぼくはたくさんのウェブページにアクセスするようになった。「ウェブページ」「ウェブサイト」という競技は自由度が高くて、ずいぶんとフリースタイルだった。個性豊かなウェブサイトに出会うのが大好きだった。無数の主張が展開されていた。 iPhone が登場してスマートフォンの時代に突入すると、モバイルアプリケーションの類も出てきて、それらはよくできていた。つられてウェブページやウェブサイトも洗練されていった。ユニクロの店舗が増えて、だいたいどこに住んでいても安定的に「これくらい」という質の上品な衣服が手に入るようになって、国民全体の衣服の質のボトムラインがグッと上がったような感じ。アプリもウェブもコモディティ化して、多くの人にとってわかりやすく使いやすくなっていった。 ところで、ある時期にはモバイルアプリケーションのインターフェイスを評価するときに「リッチ」という言葉がやたらと持ち出されていたと記憶している。リッチ・ユーザー・インターフェイス。リッチ・クライアント。ぼくはウェブに対する好意をこじらせていたから「じゃあ、ウェブはプアってことなんですか?」と思ったりしていた。はたして「リッチ」とはどういう意味だったのだろうか。 最近のデジタル・プロダクトはユニクロという感じがする。社会にとってよいことだと思う。質が安定している。かつての、個性的な個人ウェブサイトを巡っていたぼくは、古着屋さんで運命の一着との出会いを求めるようなテンションだっただろうか。 あるいは、よく手入れされた形の整った街路樹と雑草の対比として捉えてもいいかもしれない。整った街並みの整った街路樹も好きだけれど、ぼくがウェブに感じてきた豊かさというのは、ウェブという大森林の中に生い茂った無数の名前もわからないような植物たちから生じていたのではないか。人が「豊かな自然」と言うときには、街路樹よりも大森林を想像するように思う。