ひとつ古い世代のやり方
ある時点において「自分のやり方」を確立して、周囲よりも上手に特定の作業をこなせるようになったとする。これは自分にとってグッドなことであろう。
ある領域について、
ほとんどの人が 1 のコストをかけて 2 のゲインを得ている
自分は 3 のコストをかけて 10 のゲインを得ている
数字はおおざっぱなものだけれども、このような状況を想定する。
時が進んで便利なツールが出現して、
ほとんどの人が 1 のコストで 9 のゲインを得られるようになった
自分は 3 のコストをかけて 10 のゲインを得ている
状況がこのように変わったとする。依然として自分の方が「多くのゲインを得ている」とは言えるが、他の人よりコストをかけてしまっていてコスト効率が悪い状況に陥っている。こういうときに「確立した自分のやり方を捨てられるか」ってのは人生においてなかなか重要なトピックだと思う。
たとえば「デジタルデータの管理」を例に考えてみると、こんな感じ。
手動管理しかない時代は、自分なりのフォルダ構成を設計して運用できる人にアドバンテージがあった
検索すればなんでも見つかる時代になれば、そのアドバンテージはほとんどなくなる
自分なりの管理方法に固執しちゃうと、他の人より非効率な状況にもなってしまう
かれこれ半年間くらい M2 MacBook Air 2022 上で Rewind を動かしているのだけれど、役に立つタイミングがぜんぜんなくて、どうしたもんかと思っている。ぼくは Rewind がなくても「あれ、どこだっけ〜」を自力で解決できてしまうので困っていないというのが現状だ。しかし、ということは自分なりに大なり小なりのデータ管理手法を確立しているということだろう。 自分の考えは可能な限りテキストに起こしてここの Scrapbox に記録しているので、あとから思い出して参照できることが多い。これは 2023-09-13 時点ではアドバンテージになっていると思う。だけどたとえば、頭の中で考えたことを勝手にテキスト化してうまいこと記録してくれるようなツールが登場したら、ぼくはアドバンテージを失って、場合によってはひとつ古い世代の非効率なやり方を捨てられない人間というポジションになるだろう。