「うまくできなかった」と「うまくできたかどうかもわからない」の間には距離がある
ぼくはこの 2 つをなるべく区別して話したいと思っていそう、と自覚したので書き出してみる。
たとえばぼくが今から絵画教室に飛び込んで、与えられたテーマに合わせて絵を描いたとする。ぼくは絵画を描くことについていっさいの訓練を積んでいないズブの素人である。きっと、自分の描いた絵に対して手応えを感じることは難しいだろう。それで、各位が順番に自分の絵を発表するような時間があったとしたら、あまりの自信のなさに「へたくそな絵を描いてしまってすみません、死にまーす」とでも言って自分の心を守りたい気持ちになってしまいそう。 ただ、もしかしたら、絵の専門家から見れば、なにかひとつでもほめられるポイントが見つかったりするのかもしれない。「モチーフの選び方はいいですね」とか。なにせズブの素人なので適当に言っているけれど、そういうこともあるのかもしれない。ぼくは専門性に対して敬意を払いたいと思っているので、素人の自分による評価より、絵の専門家による評価に耳を傾けるのがよいと考える。 「うまくできなかった」と評するには、なにがどううまくいかなかったのかを説明できる必要があるだろう。説明できないのだとしたら「うまくできたかどうかもわからない」が現在位置になるはずだ。これらを混同せずに、区別できていたい。
特に自分が改善したい・研鑽したいと考えている領域においては、この区別は重要であろう。「うまくできなかった」までわかっているのであれば「次はもっとうまくやりたいので、◯◯を試したい」を見つけられそうだ。「うまくできたかどうかもわからない」のであれば、わかりそうな人に教えを求めるなどして認識を前進させるところから始めることになる。
なにが悪いのかもわかっていないのに「すみません」ととりあえず謝罪の言葉を繰り出すのは不誠実だ。上手・下手を適切に評価できる能力がないのに「うまくできなくて、すみません」と発するのもまた不誠実と言える。
「次はどうする」かそいつと約束する
うまくできなかった、とするならば
「次はどうする」かを考える
整理できてきたので、自分が考えていそうなことをまとめる。
物事のよしあしを評価するには、多くの場合において専門性を求められる 「とりあえず自分を下げておく」には心を守る効能はあるが、それなりにデメリットもあるので注意して使う
特に、能力を伸ばしておきたい領域については、とりあえずで自分を下げることはせず「うまくできているかどうかもわかりません」「どう感じたかを教えてほしいです」と表明できるようにありたい