日本の舞台芸術界で活躍するキーパーソンに、2020年代、あるいは「2030年」を見据えた未来について伺うインタビュー・シリーズです。聞き手・編集を竹宮華美が務めました。
編集者・批評家を経てここ10年ほどはアーティストとしてアジアを中心に活動をされている藤原ちからさんに、台北で参加されたアーティストラボのお話やご自身の活動の中心にある都市を探検する遊歩型ツアープロジェクト『演劇クエスト』のいまとこれからについて伺いました。 2021年12月17日 @横浜(YPAM2020開催中)
2021年12月28日 オンライン
2023年10月再編集
編集者・批評家からアーティスト活動に至るまでの変化
竹宮華美(HT):国際交流基金のインタビュー (*1)で、12歳の時に高知県から単身上京されたと拝見しました。一般的な日本の義務教育を受けて育った子供たちとは、生活環境が違っていたと思います。いまの活動に影響があったなと思う経験はありますか?
藤原ちから(CF):1990年代の日本は、学歴至上主義がまだ強く機能していた一方で、バブル経済の崩壊や、地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災もあり、足元が崩れていくような暗い感覚がありました。そんな中、東京に子どもひとりでいて、何のためにここにいるのか、モチベーションを見失ってしまった。そのうち雀荘にほぼ毎晩入り浸るようになり、お世話になってた居酒屋では在日朝鮮人二世の人たちやトランスジェンダーの人たちにすごく可愛がってもらいました。かろうじて見つけた居場所が、たまたまそういう場所でした。やがて立教大学で政治社会学の栗原彬先生のゼミに入り、論文では「公共性」と「親密圏」について書きました。2000年前後は、公共的空間に対してある種の親密なコミュニティの可能性が探られていて、障害を持った人たちのコミュニティや、自助グループ、NPOなどの小規模な活動にスポットが当たり始めた時期でした。卒業後は横浜にある地域作業所カプカプに就職しました。所長の鈴木励滋さんは、今ではダンスや演劇の批評家として活動したり、アーティストを招聘してワークショップを行ったりしていますが、当時はまだアートとそういったコミュニティが融合するのは難しい時代で、彼も時が満ちるのを待っているような時期だったと思います。
それから職を転々として、30歳くらいの時、批評家の佐々木敦さんが主宰する雑誌「エクス・ポ」の編集に携わりました。そこでチェルフィッチュの岡田利規さんの担当をしたのが縁で、演劇にのめり込んでいきました。現代演劇は若い世代の声を反映できるメディアだと感じたんです。でもそれは「共感」を呼ぶようなものというよりは、閉塞感の漂う社会に対して新しい価値観をもって挑発するような先鋭的なメディアでもありました。各々のアーティストがその技法を切磋琢磨していて、結果として現代演劇のムーブメントが生まれていった時期だったと思います。 同時にそれはジャンルの壁が壊されていく時代でもありました。2000年代は現代演劇とコンテンポラリーダンスの境界が解けて、2010年代には現代演劇と現代美術の壁もある程度越境されました。横浜のblanClassは現代美術系のアートスペースでしたが、演劇やパフォーマンスも頻繁に行われるようになり、「友達以上、作品未満」というそのコンセプトに共鳴するアーティストたちが出入りしていました。みんなお金もなかったので、お金をかけずに作品を発表できたのも大きかったです。それもあって、素舞台に近いシンプルな空間での実験的なパフォーマンスが潮流のひとつになっていました。東日本大震災後には脱・東京中心主義の動きが生まれたりと、少しずつ状況の変化はありましたが、いずれにしても、作り手たちそれぞれのヴィジョンが可視化されるような時期だったと思います。 HT:批評家としてはいつ頃から演劇に関わり始めましたか?
CF:2010年に劇評を書き始め、『演劇最強論』(徳永京子との共著)を2013年に出版しました。はっきり批評家と名乗り始めたのは、2014年にドイツのテアター・デア・ヴェルト(世界演劇祭)に参加した時だったと思います。同じ年に『演劇クエスト』を作り始めたので、それからの数年間は、批評と創作の両輪でやっていました。 ただ2010年代後半になると、海外での自身の活動が増えたことで、日本の演劇公演をたくさんは観られなくなりました。同時にその頃から、批評を書くのが難しいと感じる別の理由も生まれました。批評家は、作品や作家の活動を継続的に観察して、その上で言葉を紡いでいく職業だと考えていましたが、SNSが荒んできてからは、言葉を取り巻く状況が大きく変わってしまった。脊髄反射的な反応を招くSNSと、時間をかけて言葉を積み重ねていく批評とは、そもそも相容れないのかもしれません。また、日本でもハラスメントの問題が告発され始めた時期でもあり、誹謗中傷で人が亡くなることも起き、僕の大切な友人も亡くなってしまいました。そういう環境で定期的に文章を発表するためには、精神的に何かを殺さないと難しく、それは僕には無理でしたね。それに批評家というのは、既存の価値観や権力への批評をする存在でもありますが、一方で、その言動によって特定の作家の名声を高めたり、賞の審査や助成金の評価に関わるなどして、権威的システムに与しうる存在でもあります。実際、自分がかつて評価した作品の作り手たちがハラスメントで訴えられる事案もいくつかありました。批評家が作家を権威づけてしまう構造がある以上、結果としてハラスメントへの加担はなかったのか、ということは自問せざるをえません。
これまでの演劇やダンスの文化そのものに、ハラスメントに結びつく構造的な問題があったのだと思います。同じ過ちを繰り返さないためには、「自分も含めたどんな人間でも過ちを犯しうる」という前提に立って、ハラスメントが起きないような倫理観の浸透や、コンプライアンスの共有、制度づくり、法整備、セイフティーネットの構築などが必要です。もちろん僕自身も、自分の価値基準や判断力をアップデートしていかなくてはなりません。それらがある程度達成されるまでは、批評の言葉を紡げるようにはならないかもしれません。
Asia Discovers Asia Meeting for Contemporary Performance(ADAM)について
https://scrapbox.io/files/65c4c059d8d44d0024cbb78d.jpg
copyright by Taipei Performing Arts Center
「Island Bar」が出来るまで
HT:2018年から台北藝術節で実施されるようになった『Island Bar』は、ADAMから生まれたとお伺いしたのですが、どのようにできたのでしょうか? CF:ADAMの最終プレゼンテーションで発表したのが『IsLand Bar』でした。まずタン・フクエンから、ラボメンバーだった、香港・ベルリンを拠点にするダンサー、スカーレット・ユーを紹介されたんです。僕はその頃、日本列島から台湾、フィリピンにかけての島々を、国単位ではなく環太平洋的な島嶼列島の繋がりとして見ようとしていて、その話を食事しながらした時にスカーレットが「Island Bar」という名前を発案したのだと記憶しています。ただ、誰かの作品というよりは、ADAMでのワークショップや日々の出来事をヒントにして、複数のラボメンバーによって作品へと仕上げられていったという感じです。
当日配布したパンフレットは、台北の林森北路にある歓楽街を紹介する、日本人ビジネスマン向けのリーフレットを参考にしました。ホステスの名前・年齢・星座・身長・メッセージ、台湾と日本のダブルかどうかといった属性も書かれている紹介文です。我々アーティストもアジア各地から来ていて、見本市的な場所に晒されるという点においては似ている、と感じた部分がその当日パンフレットには反映されました。
カクテルを作るというアイディアは、ミャンマー出身のモー・サットとベトナム出身のトゥアン・マミが開催したワークショップからヒントを得ています。二人は、朝からカクテルを調合して飲むという部活動をしていたんです。モー・サットがカクテルの調合に詳しかったのと、マミがベトナムから持ち込んだワインにまつわる話が興味深いもので、なるほど、お酒というのはその背景に複雑なコンテクストを湛えている、と感じたんです。
決め手になったのはリトリートの日。ヘンリー・タン、リロイ・ニュー、そしてスカーレットと一緒に自転車に乗って台北を走り回って、たまたま訪れた台湾ビール工場でフレッシュなビールを飲んでいた時です。「Barスタイルで、アーティストがそれぞれひとつずつテーブルを持って、カクテルつくってパフォーマンスしたら面白いんじゃない?」って話になって。それぞれのアーティストが提供するカクテルには、何らかの政治的・歴史的なコンテクストを持たせるようにして、それをきっかけに対話が生まれるような場を目指しました。
そもそも2週間足らずで初対面のアーティストたちと組んで、海外のプレゼンターたちの前で最終発表までやらされるというのは、どこかで自分たちが商品化されてマーケットの俎上に乗せられている感覚が拭えませんでした。当時はプレゼンターと10分間で話す「スピード・ネットワーキング」というプラットフォームがあったのですが、それを逆手にとって「ノン・スピード・ネットワーキング」を裏テーマにして、時間いっぱい自由に酒が飲めて喋れるような、カオスでサステナブルな場を目指したんです。
https://scrapbox.io/files/65c4c1e238e6250028c64679.jpg
島嶼酒吧1(copyright by Taipei Performing Arts Center)
このプロトタイプ版『IsLand Bar』を発展させて、タン・フクエンが芸術監督を務めていた2018年の台北藝術節で中山堂のカフェで上演しました。僕とスカーレット・ユーと李銘宸が中心になって複数のアーティストに出演してもらいました。ADAMはアーティストが自分たちでアイデアを膨らませていくことを促していますし、その意味で『IsLand Bar』はADAMの理念と合致しているように思います。ラボのアーティストが次年度以降のファシリテーターを務めるという循環システムも独創的です。個人的にはそのような環境を用意してくれたことにとても感謝していますが、ただそれをアーティストに「促している」のはやっぱりTPACやADAMなわけですから、「やらされる」のではなく「自分たちでやる」という意志を持つのは大事です。でもそれは簡単なことではありません。ラボである日、ファシリテーターのフクエンが「君たちは生徒ではないし、私たちは教師ではない」と言い放ったことがありました。つまり、教師と生徒のような関係になってしまう危険性もあったということです。
HT:TPAM2020の『Island Bar』公開ゲネプロに参加しました。「ようこそ、いらっしゃいませ」という雰囲気はありつつも、どのテーブルに座るか、どう楽しむかは観客にゆだねられていて、選ばないと楽しめない。その雰囲気は今考えるとアジアの市場にいるような感覚もあったなと思いだしました。
CF:観客の受動性と能動性については、常に考えているポイントです。きれいにパッケージされたものを用意して観客に消費してもらう関係性が、あまり好きではないんでしょうね。2019年に上海外灘美術館で上演した『IsLand Bar (Shanghai) - The Butterfly Dream』はもっとカオスで、3時間出入り自由にしたのですが、深夜1時過ぎになっても観客が帰らない回がありました。
横浜でのTPAM2020の『IsLand Bar (Yokohama) - Port Undersea』については、プロダクションを担ってくれたTPACやリバー・リンとかなりディスカッションを重ねました。TPACはスタッフが素晴らしく協力的ですし、アーティストも良いメンバーが集まってくれました。
『Island Bar』にかぎらず、どのプロジェクトにおいても、劇場の内と外を繋ぎたいとか、アートと生活との接点を考えたいんです。観客も作り手も、人間ですが、その事実を蔑ろにして感覚を麻痺させていくと、作品のみならず、アートに関わる人間までもがコンテンツとして消費されていってしまう危惧があります。人間がお互いを消費していくような土壌自体を根本的に変えないと、ハラスメントや暴力の芽を摘むことはできないと思います。
https://scrapbox.io/files/65c4c275b9a736002475919a.JPG
IsLandBar上海 photo_by_林16
演劇クエスト(ENGEKI QUEST)の過去・現在・未来
HT:都市を探検する遊歩型ツアープロジェクト『演劇クエスト』は、「冒険の書」と呼ばれる冊子に書かれた指示を頼りに、参加者はひとりで町をさまよう参加型の作品です。今までの作品を振り返り、創作プロセスの変化や新たに見えてきたことはありますか?
CF:2014年に横浜のblanClassで作った最初の『演劇クエスト』は、三浦半島が舞台でした。当時は東京文化圏での作品にエネルギーやパッションをだんだん感じられなくなってしまっていて、その文化圏の外側へと目を向けつつある時期でした。どちらかといえば初期は「設計者」であることを意識していて、必ずしも自分が執筆したいわけではなかったんです。ただTPAM2015での上演をきっかけにして海外で滞在制作する機会をいただいてからは、現地で感じるリアリティが圧倒的に刺激的だったし、現地コラボレーターに協力してもらうとはいえ、ひとりで滞在してリサーチと執筆をするしかなかったんですよね。そのやり方にだんだん限界も感じるようにもなったので、原点回帰という気持ちもあり、2017年にblanClassに協力していただいて「港の探偵団」というワークショップを開催して、その有志メンバーと一緒に「横濱パサージュ編」(2017)と「花の東京大脱走編」(2018)を作りました。
その後、そのメンバーであり妻でもある住吉山実里とアート・コレクティブorangcosongを結成し、さらにイラストレーターの進士遙さんとの3人体制で『演劇クエスト』を作りながら、現地コラボレーターとプロジェクトごとにチームを組んでいくスタイルが確立されました。そうやって関わる人たちによって、『演劇クエスト』というプロジェクトが成長していっているのを感じます。まだ台湾では作ったことがないので、いつか台北や、祖母が生まれた高雄でも作ってみたいですね。
そのようにしてチーム体制が変化するのと並行して、世界の情勢も変わっていますから、作品の質やテーマも少しずつ変わってきました。特にロドリゴ・ドゥテルテ氏がフィリピンの大統領になり、ドナルド・トランプ氏がアメリカ合衆国の大統領になり、「分断の時代」が明瞭になっていった。その頃からは、世界各地のいたるところにある「見えない壁」をどうやって潜り抜けられるかをテーマとして強く意識するようになりました。ただ「見えない壁」の存在そのものについては、東京で生きていたティーンネイジャーの頃からずっと感じていました。
https://scrapbox.io/files/65c4c2cd229c8600253a0b56.jpg
「演劇クエスト マカオの隠れ窓」(2022)
HT:いまその「潜り抜ける」っていうのはどういう風になっていると思いますか?「見えない壁」があるかどうかも含めてお伺いしたいです。
CF:「見えない壁」はなくなったわけではありません。差別や偏見はどんどん増幅されていると感じています。ただ、リベラル派と排外的ナショナリズム派とが両極に分かれ、そのあいだの対話が不可能になっている今の日本では、「壁」を可視化する戦法は必ずしも有効ではないかもしれない。そこで『演劇クエスト』シリーズは、観客が自分自身で自由に「壁」を飛び越えていく感覚を磨けるような、ゲームとして設定するのも有効だと思うんですね。例えば東京都現代美術館で作った「メトロポリスの秘宝」(2019)は、東京という場所を浮遊しつつ、地に足をつけて生きている人々と出会っていくような作品とも言えます。美術館の外の生活空間と接続し、都市を浮遊していくうちに、「東京」の見え方が変わり、自分自身の秘められた能力も開拓されていく……というような。
コロナ禍が到来してからは、以前のように現地リサーチができない分、想像力を使ってフィクショナルな要素を強めていくことにもなりました。スイスでの「ローザンヌ現代妖精譚」(2021)は完全リモートで、一度も行ったことのないローザンヌを舞台に作りました。現地コラボレーターのHirokoさんが教えてくれたレマン湖のウナギ伝説を軸に、中世ヨーロッパの歴史と繋がるような物語を創作しました。彼女が現地をひたすら歩いて撮ってくれた動画を観て、それを想像力と結びつけるような作業でした。マカオでの「マカオの隠れ窓」(2022)(*4)も同じような方法で創作しました。
今後も、オンラインを組み込みながらの創作スタイルは続けていくと思います。現地コミュニティのリサーチはやはりその場に行かないと難しいと痛感していますが、遠い場所を想像し、丹念に文献を調べながら物語を生み出していくやり方も、僕らにとっては刺激的な試みなんです。
コロナ禍以降の舞台芸術で必要なこと
HT:コロナ禍を経て、少なくない数のアーティストの創作プロセスが以前とは変わってきたと感じています。以前のように対面のリサーチや稽古がまた出来るようになったとしても、新たなクリエイションの可能性として、方法を選択しながら今後も新しい方法で作品は創作されていくと予想しています。今後、新作またはレパートリー作品をどのように「続ける」、「サイクル」していくことが出来るとお考えでしょうか?
CF:YPAM2021のフリンジではいくつかの作品を観ましたが、いわゆる劇場での上演とは異なるスタイルを採るいくつかの作品が心に残りました。世界がこれだけ不安定になってくると、柔軟さ、フレキシビリティというのは今まで以上に大事な要素になります。コロナ禍が仮に終息したとしても、第二、第三の困難はやってくるかもしれないわけですから。世界の政治状況も不安定ですし、その不安定さと共に芸術活動をしていくしかない。既存のスタイルに固執するのではなく、フレキシブルに可変的に活動を続けていく、という意識を彼らの作品から感じました。
一方で、コロナ禍で若い世代の海外渡航の機会が激減している事態については憂慮しています。オンラインで様々な国際プロジェクトが進行していますが、そもそも関心がないのか、情報が届いてないのか、そのような場に参加しても日本人アーティストはほとんど見かけません。逆に言えば、海外との繋がりを見出したい人にとっては今はチャンスかもしれないんですけど。
既存のネットワークと関係なく行動する人たちがもっと増えてきてもいいのかもしれませんね。2010年代は舞台芸術においては「モビリティの時代」で、アジアにおけるプロデューサーたちのネットワークが形成された時期でもあります。ADAMは「アーティスト・イニシアティブ」を目指してきましたが、裏を返すと、ほとんどの国際的ネットワークは「プロデューサー・イニシアティブ」だったんですよね。アーティストももっと出会いの場に参加して、協働できる人を見つけることも大事じゃないでしょうか。
HT:人との出会い方に直結する国際的な移動については、いずれ緩和されると思います。ただ、若い世代は外に出る「欲」があまりないともいわれていたりもします。さらに、インターネットで得た情報や発言だけを鵜呑み過ぎないということは、自戒も込めて注意深くいたいと思っています。最終的に何を選択するかの判断は、個人それぞれだと思いますが、意志を持って考えたことが、選択できる環境や様々な手段を絶やさないでおけるかが、わたし含め上の世代と呼ばれる人たちが余白を持って残していく必要があるのではないかと思っています。
CF:「下の世代に欲がない」というのは常にどんな時代でも言われてきたことですから、それは虚像かもしれない。ただ、ドメスティックな視野に陥ったり、差別や偏見が増幅されるような悪しき環境がいよいよ整ってきたとも言えるので、そこに穴を開けていくような試みは必要だと思います。単に海外渡航すればいいとは思いませんし、むしろ差別や偏見を増幅させて帰国する人もいるわけですが、「外」に行かなければ見えないものがあるのも事実。異文化交流できる回路はこれからも必要ですよね。
でも、環境が整えば人材が育つ、というわけでもない気がするんです。用意された温室では、形のきれいな果実はできるのかもしれないけど、そういう定形から逸脱する人のほうが面白いかもしれないじゃないですか。特にアーティストであればなおさらです。そういう、定型に収まりきらない規格外の意志やビジョンを持った人やそのプロジェクトに、お金やチャンスが回るといいですね。地位とか名誉とかも誰かが寡占するのではなく、どんどん椅子を回して循環させたほうがいいと思います。きっと我々がしないといけないのは、椅子取りゲームではなくて、椅子を回すゲームなんですよ。椅子がなくなったらどこか「外」から持ってきたり、自前で作ったりすればいい。椅子、つまり役割を得ることで、初めて花開く才能があるはずです。そして若い時は失敗も多いわけだから、お互いにちゃんと人間同士だと見なせるような優しさのある場所で、トライ&エラーが許されるような環境や風土を育てていくことが必要だと思います。そういう環境づくりは、今後の僕たちorangcosongのプロジェクトでもやっていきたいと思っています。