台湾はここ20年ほどの間に現代舞台芸術や現代アートにおける文脈で著しい発展を遂げています。その期間に何が起きたのか、ポイントを整理し今後、より台湾の舞台芸術を深く掘り下げていくために、シーンの最前線で係わってきたキャシーさんにインタビューを行いました。(竹宮華美)
※この記事は日本語ver.のみです。
◆2020年10月6日(火) オンラインインタビュー
(聞き手:竹宮華美、森山直人、通訳:新田幸生)
竹宮華美(以下HT):まずは、台湾におけるアートや舞台芸術の社会的な位置付け、あり方はどのようなものなのでしょうか?日本では「美術(コンテンポラリーアートを含まない)」や「音楽」は教育の中でも扱われておりアーティストの職業としても、商業的にも業界内で偏りはありますが比較的、認知もされて理解もされています。ただ特にコンテンポラリーアートや「演劇」「ダンス」「パフォーマンス」といったジャンルの作品は、アーティストやプロデューサーの職業としての地位や「産業」としての経済的な自立がまだまだ更新されていく必要がある状況に思います。
キャシー・ホン(以下、KH):かなり大きな質問ですね。きちんとお答えするには準備が必要だと思いますが、大きく言えば、日本とあまり変わらないかもしれませんが、ただ、今回のCOVID-19に関係する一連のプロセスと、一代前の台湾政府の文化部長(鄭麗君)のおかげで、台湾内でのアーティストの地位は世界には認められるようになってきたとは思います。とはいえ、率直にいえば、パフォーミングアーツというものはどの国でもマイナーなもので、決してメジャーにはならないです。 HT:『STUDIO VOICE VOL.415』(2019年発売)にキャシーさんのインタビュー記事が掲載されていますね。そのなかでキャシーさんは、ご自身が舞台芸術の世界で20年以上お仕事を続けてきた中で、特にここ10年、舞台芸術に限らず様々なジャンルのアーティストが急速に活動を広げており、国際的に活躍する人も増えているということをおっしゃっていました。
ちなみに、この20年間というと、台北市以外にも国立劇場ができたり、劇場以外の場所での発表の機会が増えたり、さまざまな出来事があったように思います。日本で情報が探せた範囲で、少しそのことを簡単な年表にしてみました。もちろん、この間のインターネットの普及や、また大学での舞台芸術教育が推進されるなど、台湾政府の文化芸術に対する考え方も関係してくると思うのですが、このなかで、キャシーさんの思う重要な転換期や出来事はいつ頃、どういったことだったとお感じになっていますか?
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参考年表:
1973年 クラウドゲイト舞踊団 活動開始 雲門舞集 1998年 台北アーツフェスティバル
2000年以降 政府文化部による文化創意産業(クリエイティブ産業)開始 2008年 台北フリンジフェスティバル
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KH:まず、この年表で取り上げられている内容は、おもに建築物や空間などのハード面が中心ですよね。でも、もしかしたら、ハード面よりソフト面での作品の作り方の変化が、この間の一番大きな変化だったかもしれません。重要な一つの事例は、次の質問とも関わりますが、台北フリンジフェスティバルです。このフェスティバルは、既存の劇場空間の概念を打破して、さまざまな非劇場空間で、パフォーミングアーツが上演できる方法を生み出しました。まさにこれを契機にして、一気にアーティストの考え方と作品の内容、作り方が変わりました。
もうひとつの大きな変化は――こちらは具体的に何年から、という言い方はできませんが――、「アートマネジメント」がひとつの専門分野として認められたことが大きな変化だとおもいます。
以前は日本と同じで、ワンマン制作会社や劇団が主流で、アーティストとプロデューサーの両方をやっている人が主に活動していたのですが、台湾では、この間、大学にアートマネジメント学科ができたことによって、仕事が手分けされる仕組みが生まれ、アーティストとプロデューサーが協働作業で行っていく、というスタイルが、今では主流になりました。もっとも、それでも多少遅れているな、と感じることもまだあります。例えば、最近、台湾の劇場を法人化する、という流れがあるのですが、実際に法人化を進めていくのは、今触れたような人たちよりも、もっと上の世代の人なので、いざ法人化が実現してみると、そうした劇場にはディレクターが一人しかいない、という状況になりがちなんですね。それはもはや時代遅れだと思います。というのも、私たちより上の世代の人たちは、プロデューサーとアーティストを兼務できる人が何人もいますが、私たちの世代は分業化が進んでいるので、代表が一人だけ、というしか法人の作られ方は時代に合わなくなりつつあるとは思います。
個人的に発見して面白かったのですが、歴史的に見ると、もともと台湾に「現代演劇」の知識が入ってきたきっかけは、アメリカからの帰国子女の人たちの経験があったからでした。それで、アメリカ合衆国の現代演劇のシステムが、台湾に流行った時期が、以前には確かにあったんです。それに対して、近年では、台湾も国際共同制作なども含めて、他の芸術分野との共同制作が増えてきたのですが、その理由は、最近の世代はヨーロッパやイギリスから台湾に帰ってきた人が多いからだと思います。ヨーロッパやイギリスは大陸で繋がっている国だから「クロスオーバー」が当然という考え方があるので、それも多少関係あるかもしれませんね。アートの領域で活躍している世代が、アメリカ派からヨーロッパ派に移行してきたということも、最近の動向と影響があるかもしれません。
森山直人(以下、NM):なるほど、そういう事情もあるのですね。大変興味深いです。そうすると、大きくいえば、キャシーさんよりも上の世代が「アメリカ派」で、キャシーさん以降の世代が「ヨーロッパ派」というイメージでしょうか。
KH:私より若い、現時点で30代以下の世代に「ヨーロッパ派」が多いですね。
NM:現在60代から70代くらいの、台湾における大御所の世代のアーティストは、どういうバックグラウンドを持ってアートで地位を築いていった人たちなのでしょうか?
KH:その世代は――音楽関係者はちょっと違いますが――演劇やダンスの場合は、ほとんどがアメリカに留学した帰国子女で、つまり、私の先生達の世代はみんなアメリカ派だったんですね。その影響は自分たちの世代もあって、私たちの場合も留学に行くならアメリカ、というのが普通でした。でも、いまの20代から30代の人たちは、アメリカからではなく、ヨーロッパやイギリス、フランスを選ぶ方が多いです。
なぜアメリカだったのか、という大きな理由は、やはり第二次世界大戦後の台湾とアメリカは軍事的に関係性が深かったので、
【編集者註:言うまでもなく「台湾」は、第二次世界大戦後に国民党政府が渡ってきてからは、国際的には「中華民国」政府であった。アメリカが共産主義国である中華人民共和国と正式に国交を持つようになったのは「ニクソン訪中」(1972)を経て、ようやくカーター政権下でのこと】、海外の情報はほとんどアメリカから入ってきたものが多いんですけど、90年代以降はインターネットの普及によって、誰でも世界各地の情報を、アメリカという枠を越えてリサーチできるようになったから、一気に選択肢がふえたんです。だから留学先も、アメリカ以外の選択肢が増えてきたので、このことはとても大きな変化かもしれませんね。
NM:なるほど。その意味で、1990年代半ば以降のインターネットの普及は、台湾の現代演劇全体にとっても転機だったということですね。
HT:さきほどおっしゃっていた「台北フリンジフェスティバル」について、もう少し伺いたいです。台湾では、家賃や厳しい消防法の決まりなどがあって、日本でいう「小劇場」と呼ばれている劇場文化がほとんどなかったと伺ったことがあります。そういう中で、「台北フリンジフェスティバル」ができたことで、劇場空間以外でのパフォーマンスの可能性が広がったことは、いまおっしゃっていただきましたが、同時にまた、そこでは「スタッフの育成」や「作品批評」をきちんと行う枠組みも設けられていると伺い、とても興味を持ちました。このフェスティバルでの様々な試みが、アーティストやスタッフにとってどのような影響があったでしょうか。良い点と課題などもあれば知りたいです。 KH:一番よかった点は、このフェスティバルが、まさに新しいポテンシャルの高いアーティストを見つけるきっかけとなる場として機能してきたことです。実際、台北フリンジフェスティバルができる前は、新しい演出家やアーティストの作品が見れるチャンス自体がなかったんです。多少あったとしても、国立台湾芸術大学の出身者の作品だけという感じでした。でも、フリンジのおかげで、芸大出身だけでなく、誰でも簡単に作品を発表出来る場が生まれたことで、数百の作品のなかで存在感が際立っている作品に出会えたり、今後も支援していきたいと思えるような作品がいくつも発見できる、という感じですね。いま台湾で活躍している若手の中にも、デビュー作は台北フリンジフェスティバルである、という人はすごく多いんですよ。 それから、最近はどうかはわかりませんが、基本的に、台北フリンジフェスティバルは毎年審査も行なっています。しかも、「台北フリンジフェスティバル」と「台北アーツフェスティバル」は同じ基金の下で運営されているので、毎年「フリンジフェスティバル」で賞を取った作品を、翌年の「アーツフェスティバル」で上演できるようにして、アーティストにとってのステップアップの架け橋になるような仕組みを作っていました。「フリンジ」というと「若手」というイメージですが、そこで賞をとると、翌年は国際的に有名な外国アーティストも参加する「アーツフェスティバル」で、一緒に作品を発表できることになるわけです。
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KH:もう一つ大きなポイントは「空間の使い方」です。空間の使い方は3者に対して影響がありました。まずはアーティスト側からみると、空間にあわせて作品の質も変わるし、作り方や演出も変わってくることが、いい影響を及ぼしていたと思います。もう一つは空間のオーナーさんたちです。つまらないと思っていた空間が、アーティストが使ってくれたことで自分の場所の多様性に気づき、フリンジフェスティバルの期間以外にも面白いことをやり始めたオーナーさんもたくさんいます。三番目が観客に対してですが、観客のなかには、国立劇場などのちゃんとした劇場に演劇を観に行くことに多少抵抗がある人も多いんですけど、フリンジフェスティバルなら、会場が自分の家の隣のカフェとかよく通っている美容室だったりするので、「観に行きたい」っていう気持ちがわきやすい。フリンジフェスティバルで初めて演劇を見た、というお客さんも多いです。
若いアーティストにとって、芸大が「教育」の場所だとしたら、フリンジフェスティバルは初めての実践の場、ということになります。実践という意味では、私たちもフリンジフェスティバルを運営していて、育成ワークショップなどをやっていたことがあります。やってみると、たとえば、どういうキャッチコピーが集客につながるか、効率がいいかなどがだんだん分かってきますよね。フリンジフェスティバルでは100団体ほどの公演を一度に上演しているので、どういう方法で自分の作品をPRできるかがすごく大事です。30〜40人くらい小さな会場で、観客が少ないこともあるけれど、それもフリンジフェスティバルのリアリティの一つだと思います。わたしが思うフリンジフェスティバルの一番いいところは、リスクが一番高くない形でインターンシップができるというところ、――つまり、失敗から勉強できる教室のような場所だというところです。何をやっても勉強になる、ということですね。
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不然,B計畫《古典派的SM-巴洛克花園》Ⓒ蔡耀徵
HT:国の文化政策としてこの10年で新しい劇場ができた際に、ハードだけではなく運営のソフト面にも計画の早い段階から力を入れ、外側の劇場を作りながら中身の企画もサポートするシステムができたと伺いました。それは文化政策としてどのような意図があったと思いますか?
日本では1990年代ごろから国立や市町村が管理運営する劇場が多く作られましたが「ハコモノ」と呼ばれ、出来上がった後にどのように運営していくかが検討されないまま建設され、文化的な機能を十分に発揮できない施設が多くできてしまったという歴史があります。
NM:その件、少し補足すると、さきほどキャシーさんは演劇はマイナーだとおっしゃって、それはどこの国でも同じでお金がすごくかかりますよね。日本の歴史の中では色々な理由があるんだけど、結果として国立の演劇大学や学科ができなかったし、国立劇場も中途半端なものしかできていないのはお金の問題もあったんですよね。対して国立台湾芸術大学は立派な施設も持っているし、国立劇場もできていて、スタッフもかなり充実している劇場もできているんだと思います。そういうハード、インフラ、ストラクチャーができていったのは、先ほどの質問で演劇の文化が比較的アメリカから最初に来たとききましたが、それはアメリカモデルだったということですか?
KH:アメリカモデルということではありません。皆さんもご存知かと思いますが、台湾の人は選挙に対して異常に熱心ですよね。だから、劇場を造ることが政治家に対していいイメージにはなります。そこで、次の選挙のために文化施設を作ったり、文化政策を行なったりするのはイメージづくりのためですね。選挙のために好感度をアップする政治家が劇場を造るとか。いま台湾のどんなに田舎の県でも、フェスティバルが行われていて、それも選挙のための好感度アップのためです。それが台湾人の特殊なところで、選挙にたいして異常な関心がありますね。
HT:今後、台湾の国立劇場では、アーティストとプロデューサーを育成するプログラムを積極的に行っていく方針と伺いました。対象とするのは台湾のみならずアジアで活動する人ということですが、どのようなきっかけからスタッフの育成プログラムを行ったほうが良いという考えになったのでしょうか。
KH:二つ大きな理由があって、一つ目が今後のネットワークの可能性を探したいということです。それぞれもっているネットワークが、台湾人だけだと限られますが、ほかの一緒に仕事したことがない人や劇場との可能性を探すために台湾人のプロデューサーではなくてアジアのプロデューサーを入れて欲しいという考え方。二つ目は私自身が、衛武營國家藝術文化中心でやっていたプロデューサーのワークショップのときには海外から有名なプロデューサーを呼んだので、そんなにいい人たちを呼ぶのであれば台湾人だけで行うのはもったいないと思い、多少近い国の人たちも一緒に来て勉強して欲しいという考え方ですね。