プレイヤー・ピアノ
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カート・ヴォネガット・ジュニアの長編デビュー作。
「ピアノ」「プレイヤー」が逆転したタイトルどおり、あらゆる自動化が進んだ未来の話。操る主体はどこにあるのか。
2025年の正月に実家へ帰省した際、本棚にあるのを見つけて久しぶりに再読した。
前に読んだのは閉鎖病棟から退院した直後(2011年)だったはずで、そのときこの作品は、自分が会社組織や社会のシステムに抱く疑念の受け皿だった。「まとも」であるとされる範囲からこぼれ落ちるものが「おかしい」と定義される。主体はどこにあるのか。
ともあれ、今のタイミングで読むと、生成AI普及以降の世の中に対する警鐘として映る部分に目が行く。
非能率性にも長所はあるにちがいない。なぜなら人間は非能率的であり、かつ、人間は神の創造物であるから。
賢さのあとにくる愚かさにも長所はあるにちがいない。なぜなら人間は賢いときもあれば 愚かなときもあり、かつ、人間は神の創造物であるから。
おそらく諸君は、人間が神の創造物であるという古風で根拠のない観念にかぶりを振るか もしれない。
しかし、わたしは、無法なテクノロジーの進歩への盲信の中に暗黙に含まれた観念――すなわち、人間は、耐久力と能率性においてより優れた彼自身の像を作るために、いいかえれば、彼自身が生存をつづけることを正当化するような、いかなる論拠をも排除するために、この地上に生まれたとする観念―――よりは、このほうがはるかに弁護しやすい信念であると考えるものである。
ポール・プロテュース博士 敬白
この指摘自体が引用として記述されており、あとにはこの発言に対する人々の「反応」が描かれる。
ヒリヒリする。
「SFは現実離れしている」「SFは人間を描いていない」(※これは「純文学」礼賛の反語的バリエーションとして登場することが多い)といまだによく言われるけど、それ本気で言ってる?
#SF