都市と野生の思考
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鷲田清一、山極寿一 2017集英社インターナショナル
引用
もともと八分というのは十分から二つ引くことを意味します。村で共同でやることは全部で10あるけれど、そのうちの二つ以外は一緒にやらない。これが村八分の意味です。その一つとは火事の消火と埋葬で、これだけは手伝ってやる。火事をほうっておくと延焼するし、きちんと埋葬しないと感染症が流行る恐れがあるからです。(p80)
そうした背景には歴史の必然があるわけです。明治以降の日本は、富国強兵を旗印に近代化を進める過程で、プロフェッショナルの養成に努めました。病気の治療は医師に、教育は教師に任せ、火事は消防、防犯は警察といった案配です。食事も自分たちで一から用意するのではなく、食品会社やスーパーに任せたほうが効率的です。結果的に生まれてから死ぬまでをすべてプロに任せることで、一気に社会生活のクオリティが上がり、世界一教育レベルが高くて安全な社会ができた。おそらくは同じことをヨーロッパでもやれたはずなのに、国のシステムとしてはあえてやらなかった。(p81) junkaneko.iconヨーロッパでは国境が戦争でコロコロ変わるので、国の制度ではなく、教区で受け持つシステムがある。教育や医療に関わる制度を国に任せ、専門家を非専門家を作り上げることでお互いになくてはならない、依存的な社会が出来上がった。本当の百姓の消滅。坊主がただの坊主になってしまったのもこの頃かも。。
鷲田:芸術的感性は、おそらく狩猟民族的で、積分回路的でもある。環境や自分たちの社会生活に対する感度の高いアーティストを見ていると、まさにそんな気がします。彼らは微細な違和感に常に敏感であろうとする。直感的な判断力に優れていて、ブリコラージュ的になんでも寄せ集めて臨機応変にものを作り出す能力に秀でている。そうすると、学問にも二つのスタイルがあると考えられませんか。資料を読み込み、実証実験を積み重ねて仮説を立てるやり方と、山極さんのように動物の糞を見て新たな理論を打ち立てるやり方と。山極:仮設検証型と現場発見型ですね。我々がやっているフィールドワークは、まさに現場発見型です。ゴリラを観察していると、これまで見たことのない行動をしているs。そこから新しい学問世界がパーっと開ける。僕がホモセクシャルのゴリラを発見したのは、その典型です。鷲田:従来のゴリラ観を根底から覆すような発見があるわけだ。山極:だからと言って、これまでの学問的蓄積を無視するわけではない。いわゆる「巨人の肩の上に乗る」、つまりすでに構築されている学問的世界観を基盤として、新しい論旨を展開しなければなりません。鷲田:ただ、たくさんのデータを集めて過去の論説を分析すると研究したような気になるし、短期的に成果を出せることもある。しかも、作業は書斎の中だけで完結する。山極:一方でわざわざアフリカのジャングルまで行って、学問としてもそう簡単には認めてもらえない。けれども従来の学問のパラダイムを変えるような発見は、そういうところから生まれるのではないでしょうか。ノーベル賞級の研究者は、狩猟採集的であり現場発見型だと思います。鷲田:時代を支配するパラダイムの中で捉えたら、取るに足らないものにしか見えない。けれども、そこに注目して視座そのものを変える。山極:こうした捉え方はアーティストと同じかもしれません。優れら研究者たちも、日常的な世界の中に暮らしていながら、普通の人とは異なる見方で世界を捉えている。鷲田:そこがおもろいと思うんです。普通の人からすれば「何これ」みたいなものに目を留める。山極:いわば着眼点のオリジナリティですね。 (p102-104) junkaneko.icon積み重ねたものを一度チャラにする。アーティストは一般的に見たら高度な技術をあえて封印し、少し屈折した視点からさらに深いところへダイブする。岡潔は普段は農耕をし、書物を読みつつ数学の思考を研ぎ澄ましていた。生涯で10本すごい論文を書いた。学問でも自分がディシプリン(学科の基礎修練)の中で積み重ねてきたものを、一度チャラにするような視点を持つことが大切。
山極:それはおそらく鼻、つまり嗅覚が哺乳類にとって最も重要だからでしょう。鼻と口すなわち嗅覚と味覚、これらと視覚と聴覚とは脳内で作用する部分が全く違います。サルの進化史から推察すると、おそらく人はまず嗅覚と味覚で世界を認識した。その後、聴覚や視覚を通じて世界を広げていった。鷲田:ヨーロッパの高級芸術といえば絵画と音楽。これは視覚と聴覚です。対して日本なら絵画や音楽の他に、例えば香道があり、これは嗅覚の文化ですね。和食の芸術的な味付けや茶道は、味覚の文化と言える。日本では鼻や口を楽しませることにも価値をおき、それを工芸として発展させてきた。考えてみれば、これはすごいことですね。(p116)
ヨーロッパでモダンサイエンスが生まれたのは、人間と動物をはっきり区別するような客観性を大切にするからでしょうね。(p118)
感覚比率とは、マーシャル・マルクハーンが唱えた概念。五感は常にある比例関係のなかに置かれることで安定した現実感覚を形づくるが、ある感覚に新しいメディアが接続されることで活性化させられると、この比例関係に歪みが生じ、それを回復するために別の感覚が自ら暗示にかけるように刺激する(鷲田清一著『感覚の幽い風景』より)(p121)
Review
何かの現象に出会ったときの「これだ!」という閃き
直感力を鍛えておかないと判断力が身につかない。
山は雄大な自然の中で突然の危機的状況が訪れる。そんな時に”今ここ”で瞬時に判断して動く必要がある。
マインドフルネスにも繋がる。今ここの感覚。現代人は過去と未来(ネット情報)ばかりを見すぎているかも。 できるだけ、小部隊で個人として自然と向き合う
常時ネットに繋がっている状態だと、自分で何か見つけたとしても、それを自分で判断せず、ネットで仲間と共有してしまう。
自分主体の体験として、共有を前提として体験せず、体験を自分で判断し、直感力を鍛えることが大切である。 junkaneko.icon野生の思考を失わないために、いや、野生の思考を失ってしまった現代人はどこから取り組んだら良いのだろうか。人間社会のここまでの道筋を整理しつつ、自然生態系の中でこれからいかにして生きていくのか。私たちは一旦立ち止まる。じっくり休んで考え直す必要がある。それは統計できなモデル化した予測という手段も一つの方法だが、動物としての人間の直感力で未来を覗くセンスを駆使するやり方があっても良い。私のはだし研究は当初、仮説検証型だった。はだしの効果について、メカニズム的に推論してそれをエビデンスとして立証しようというスタイル。しかしながら、今は違う。変わってしまったのだ。仮説を考えるよりも先に、現場でいろいろなことが日々起きる。裸足で見えてきた世界は無限に広がり、人間のライフスタイルのあり方まで包含することがわかった。着眼点を変える。そして現場検証型にシフトし発信する為に、仮説検証型の研究で積み上げてきたデータを一度整理し、ピリオドを打とう。これまで関わってくれた人への恩返しの意味を込めて、2020年度中にまとめられるだけまとめよう。地球のために時間はあまり残されていない。いつか「都市から野生への思考」というタイトルで本を書くためにも。