教師宮沢賢治のしごと
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引用
table:NPKの効用 (p66)
成分 場所 多い時 少ない時
N 葉肥 葉緑素・タンパク質必要 枝垂葉をもつ、分けつは多い、濃緑色 分けつ少ない
茎葉は多い、草丈は長い 淡緑色、黄化貧弱
成熟は遅れる、結実不完全 草丈短い
P 実肥 細胞核・タンパク質必要 草丈短い、分けつ多い 分けつ少ない
成熟早い、茎葉が堅い、茎直立し藁のよう 成熟遅れる
肥料やること 葉茎柔らかい、開花遅れる
K 茎肥 炭素同化・呼吸作用(生理作用) 葉幅広い、節は高く太い、穂首太い 葉は灰白色、葉の幅狭い
茎葉ずんぐり型、葉先に丸みある 節は低く細い、穂首細い
葉色は濃緑色 茎葉はほっそり型、葉先狭い
劇を通じてこの世の仕組みのその隠された暗部に気付く感性を磨く。自分の心の中にある感動を、言葉や動きでアピールしてみる。そうした農民にとって従来決定的に欠けていたものを、劇をやることによって取り戻そうと賢治が図ったことは確かである。(p110)
善は脳の内部に無限に潜入する。
悪は表面意識に止まり、内部に潜入しない。
表面意識部に止まり善の内部への潜入を妨害する。
善は無限に潜入する。
善の潜入するほど無意識は無限に発展する。
明るくなる。
頭は軽くなる。
悪は表面意識に止まり、蓄積すればするほど頭は無意識を圧迫して苦しくなり、自由を欠く。
重くなる。
暗くなる。
ゆえに悪いことは考えるべきでない。(p134)
いまわれらにはただ労働が、生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷たく暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである。
われらに購ふべき力もなく またさるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃やせ(p133 「農民芸術概論綱要」より)
人間の尊厳というのは、自分の力で生き、生き終えられるということである(p213)
それにしても、この先に待っている21世紀という時代は、どんな時代になるのだろうか。やれ経済の発展だ。円の威力で世界中の産業を支配するのだと言ってみたところで、それがどう心を潤してくれるというのだ。しかも、今、この国の貧しき民度を考えるとき、立て直せる見込みはない。ないのだがでも、このヘドロのような国の歴史の中にもただ一筋、細長いオアシスのような思索と実践の回廊が隠されていたのだということはある。(p214)
感想
農民芸術論がなぜ出てきたのか。
演劇によって、感動や苦悩を共有する。そして、それを全身で表現することで、自分の深層心理にも気づきが得られる。何かの物事に対して100%のエネルギーを注ぐ体験をすることは中々難しい。そして、それを手軽に体験できるのが、演劇と言えるだろう。これはスポーツも同じことが言えるのではないだろうか。スポーツも芸術として捉えるならば、競技力向上のために自分自身と格闘し、葛藤や苦悩を味わいながら自分を変えていく過程が大切と言える。そして、効率的・効果的と謳う科学的な解を安易に提示してしまうのは、選手の考える力を削いでしまう気がしてならない。考えるアスリート、考えられるアスリートを育てることを頭に描きながら日々、授業に望んでいるが、情報が氾濫する世の中で育ってきた若者たちにはそうした苦労に対して労を惜しむこと自体が理解できないことになりつつある。
ある一定レベルに到達するまで、もっとアナログに鍛錬すべきなのかもしれない。人間って簡単・便利な方にいとも簡単に流れてしまう生き物だから。
教育のあり方を問い直す。何が理想かわからないが、右へならえの人材を養成するのではなく、立ち止まって考え、思い悩み、自らの答え
若者たちに生きるための哲学を!