客観性の落とし穴
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『客観性の落とし穴』村上靖彦・著 筑摩書房
◆目次◆
はじめに
第1章 客観性が真理となった時代
第2章 社会と心の客観化
第3章 数字が支配する世界
第4章 社会の役に立つことを強制される
第5章 経験を言葉にする
第6章 偶然とリズム
第7章 生き生きとした経験をつかまえる哲学
第8章 競争から脱却したときに見えてくる風景
あとがき
注
参考文献
著者は、パリ第七大学で基礎精神病理学・精神分析学の博士号を取得し、現在、大阪大学大学院人間科学研究科教授を務める、村上靖彦氏です。著者は、われわれ人間が実験による客観性を重視し、自然や社会、心を数値化してきた歴史を説きます。そして、数値化することによって必然的に生まれる「序列」が人々の心に与えてきた影響、さらには数値化することによって失われてきたものを説くのです。客観性が支配する世界では、自然は「そのままの姿で現れることをやめ」、社会は「人から切り離され」、人の心は「刺激や問いかけに対する『反応』」とみなされるようになる。
統計や偏差値への批判なら、これまでにもありましたが、本書が優れているのは、人が生きているが故に直面する「偶然」、そしてその偶然を生きる人間の「経験」の生々しさが、普遍の「理念」に至る、と説いたところ。九鬼周造、ヴァルター・ベンヤミンの思想から、現代社会の問題の本質をあぶり出した部分は、本書最大の読みどころだと思います。
なぜマイノリティの意見を「例外」「取るに足らないこと」として切り捨ててはダメなのか、その理由がよくわかる内容です。弱者やマイノリティーの声に耳を傾けること。そしてそこで感じたことの先に普遍の真理を見出すこと。そうすることでのみ、良い政治も経営も行われる、そんな印象を受けました。
引用
数値に重きがおかれた結果、今の社会では比較と競争が激しくなったのではないか
一見すると、客観性を重視する傾向と、社会の弱い立場の人に厳しくあたる傾向には、直接の関係はなさそうだ。しかし、両者には数字によって支配された世界のなかで人間が序列化されるという共通の根っこがある。そして序列化されたときに幸せになれる人は実のところはほとんどいない。勝ち組は少数であるし、勝ち残ったと思っている人もつねに競争に脅かされて不安だからだ
論理的な構造が支配する完全な客観性の世界が自然科学において実現したとき、自然はそのままの姿で現れることをやめ、数値と式へと置き換えられてしまう。自然を探究したはずの自然科学は、自然が持つリアルな質感を手放すようになるだろう
デュルケームが記した『自殺論』がそうであるように、彼は客観的な「社会」を考察する道具として統計を導入した。統計によって数学化された事象こそが社会学の対象となる
実験心理学においては、人工的な実験のセッティングにおける刺激や問いかけに対する「反応」が「心」であるとみなされ、人間同士のいきいきしたコミュニケーションは視野から消える
リスク計算は自分の身を守るために他者をしばりつけるものなのだ
社会の実質が変化して「不確実でリスクに満ちた社会」になったというよりも、数値化されたことで社会や未来がリスクとして認識されるようになった。ともあれ、数値による予測が支配する社会、そして個人に責任が帰される社会は不安に満ちており、社会規範に従順になることこそが合理的なのだ。弱い立ち位置に置かれた人ほど、上からやってきた規範に従順になることでサバイブしようとするだろう
数値化・競争主義は、人間を社会にとって役に立つかどうかで序列化する。その序列化は集団内の差別を生む。その最終的な帰結が優生思想と呼ばれるものである
九鬼は、偶然が経験の生々しさに関わると述べている。芸術が偶然を対象内容とすることを好むというのは、偶然が生命感を伴う事実に基づいていると思う。(中略)自然現象の偶然性は予知し難いもの、法則に捉え得ないものである。そこには個性と自由とが現れている。生命の放埒と恣意の遊戯とが現れている。その生命、その遊戯が美しいのである。その溌剌たる逸脱性に対する驚異が感動を与えるのである