土偶を読む
https://gyazo.com/a567b916f82fc9fa5a49157e0b5c35e4
キーワード
P332
“全体性”は身体性と精神性を統合する生命の摂理そのものであり、この地球上で我々人間が環境世界と調和して生きるために不可欠なものである。土偶を生み出した縄文人たちが数々の自然災害や気候変動を生き抜いてきたことを思えば、それは”滅びの道”を回避する実践的な知恵の象徴でもある。我々がこの”全体性”にアクセスできないとすれば、それは我々の知性が劣化し、危機に瀕していることを意味する。 その最大の要因は近代になって、我々が自らを「脱魔術化」した存在であると考えるようになった点にある。これはまったくの誤認である。我々は気づいていないだけで、我々は縄文人たちが呪術的であるのと同じくらい呪術的存在である。そして、依然として我々は神話的世界を生きている。
また、人間の知性の特性は演繹や帰納にあるのでもない。我々の現実世界を構成し、意味世界を生成させ、あらゆる精神活動の基盤をなすものはアナロジーである。演繹や帰納は数学的理性や科学技術を駆動させ、物質世界を制御する力を高めてくれるが、人間存在にとって最も重要な”生命への共感力”を高めるものではない。アナロジーを欠いた思考は全体を全体のままに捉えることができず、世界の細部に生命の本質たる”神”が宿っていることを理解できない。
昭和以降の実証主義を標榜する考古研究の世界では、椎塚土偶を見て「ハマグリに似てるね」などと口にしようものなら、これを幼稚で馬鹿げた非学問的態度だとする父権的な空気が支配してきたのであろう。しかしこれでは皮相的な「縄文人不在の縄文研究」が量産されるだけである。実際、1世紀以上にわたって、縄文土偶は男性たちの視線、すなわち”かたち”を軽視する思弁的な視線や、生命への共感力を欠いた視線に対し、一貫して自己の開示を拒み続けてきたのである。
junkaneko.icon実世界に神を視る感性。自然への敬意と畏怖の念。はだし感覚不在の裸足研究にならないように。