八ヶ岳山麓念場ヶ原開拓の足跡
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はしがき
この度山梨県北巨摩郡清里村念場ヶ原開拓地の入植者一堂から、開発の足跡を遺したいので記念碑の文章を直筆で書いて欲しいという熱心な要請があった。文章も文字も拙いのだが、あえてその希望に応えることとなった。準備が整い、五月十五日の吉日を選んで記念碑の除幕式を行うこととなったが、開発の記録もまとめて欲しいという要請を受けた。関係資料を読む時間の余裕もないまま、15年前の記憶を辿ってこれまでの歩みを書き綴ることにした。後日、各種の関係資料を書き入れて完全な記録にしたいと思ってはいるが、とりあえず、これまでの経過のあらましを記しておくことにしたい。
筆者は昭和六年八月初めて京都府に就職してから山梨県に転任、さらに奈良県に移って昭和二十年八月、太平洋戦争の終戦を迎え、社会情勢の激変にあって、翌二十一年三月に退官した。前後十六ヵ年の官吏生活では一貫して農村の開発事業に従事してきたのであるが、中でも昭和十一年四月から同十六年六月までの山梨県在任期間を通して専念した開拓事業は最も辛く苦しく印象に残る思い出として忘れることができない。振り返れば昭和十三年四月、東京市小河内貯水池建設工事による水没犠牲農家の家のうち、山梨県北都留郡丹波山村から二十七戸、同じく小菅村から一戸を開拓地の入植者として迎えてからというもの、標高千二百メートルの高原で悪戦苦闘すること三ヵ年、ようやく暮らしの道がひらけて新農村を建設した。入植者は苦しさに耐えてよく仕事に励み続け、ついに昭和十九年十月、自作農創設を達成することができた。転落寸前だった貧しい農家が苦しい時代を乗り越えて、平均二町五反を所有する自作農となり、また高原開発の基礎を築いたとして、ようやく社会から注目されるようになった。
未開地の開拓と新農村の建設を構想するにあたって、本書が役立つことがあれば幸いである。 昭和三十年五月十五日 入植記念碑除幕式展参列に際し 元八ヶ岳開墾事務所長 安池興男 識す
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