いなしの知恵
いなしの智恵 日本社会は「自然と寄り添い」発展する (ベスト新書) 新書 – 2014/3/8
涌井 雅之
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p39
文明が進むに従って人間は次第に自然を克服しようとする野心を生じた。そうして、重力に逆らい、風圧水力にこうするようないろいろの造影物を作った。そうてあっぱれ自然の暴威を封じ込めたつもりになっていると、どうかした拍子に檻を破った猛獣の大群のように、自然が暴れ出して高楼を倒壊せしめ堤防を崩壊させて人命を危うくし財産を滅ぼす。その災禍を起こさせてもとの起こりは天然に反抗する人間のサイクであると言っても不当で無いはずである。(寺田寅彦『天災と国防』) P130
火事は「祭り」と深く関わっている。実は、江戸の祭りというのは、平時における「防災訓練」でもあったのだ。 江戸の人々は、祭りによって、災害が起きた時にコミュニティでどう助け合っていくかというお互いの役割を確認していた。だから、過去に大きな火事があったところに、大きな祭りが生まれたのだろう。 P157
造園家として私は「都市の中でいかにオープンスペースを確保し、そこを緑化していくか」を基本スタンスにしている。東京でオープンスペースを確保するためには、高容積の建築群によるコンパクトシティ化が最も現実的だ。 P166
考えてみればこれまで我々日本人は、山に登ることだけを目指してきた。またそれが楽しかった。しかしながら成長のピークを越え、しかも環境容量に限界が見えてきた今、これからは山を下りる覚悟で時代に向き合わなければならない。いわば下山の楽しさを深め、その中で幸せをどう感じていくかが課題となる。
作家・五木寛之の「下山の思想」にもある考えだが、これは前章で述べた環境容量の話ともリンクしてくる。経済成長を前提にした豊かさの量を求める社会ではなく、豊かさの質を深めていく社会を目指す。それはまさに「山を下りる楽しさを深める」ことであり、それによって坂のしたに見えてくる風景を変えることもできるはずだ。 P172
ハーヴァード大学の著名な生物学者であり、生物多様性の価値を早くから主張してきたエドワード・ウィルソンは、花や緑を愛でたり、自分とは種の違う他の動物をペットとして可愛がったりする人間独自の行動特性を「バイオフィリア」という概念として提唱している。
「人間にはバイオフィリアという自然に共感し、感応する独特の機能が備わっている。自然を大切にすることによって、自らの生態系ピラミッドが安全だということを確認する本能であり、だから人間は自然と親和性のある動物なのだ」という主張である。 これに対し、私が提唱しているのが「トポフィリア」である。時としてこの感覚を利用して、狭義のパトリオティズム(愛国心)と置き換えられることがあるが、広い意味ではそうした感覚を醸成する基盤そのものと言えないことはない。しかし、それはむしろ、「トポス(場所)」に対する人間らしい自然な感覚としての「親和性」とでも言うべきものである。 例えば、自分が生まれ育った土地に帰ると、なぜかわからないが、安心する。あるいは、子どもの頃に通っていた学校に行ってみると、見慣れた風景がそのまま残っていて「ああ、まだ変わっていないんだ」と安定した気持ちになる。
そういった「場所愛」のようなもの。私はそれを「トポフィリア」と名付けた。「バイオフィリア」と「トポフィリア」の交点にある時が、人間が一番幸せを感じるのでは無いかと考えている。
人間は身近な自然にいつでも感情移入することができ、さらに見慣れた場所をランドマークとして大切に思うようになる。その二つが、自分を中心に綺麗な円を描く場所こそが、安心と安定を得られるところなのではないか。 p174
経済的な豊かさとは関係なく、人間が幸福を感じられる世界をつくっていかないかぎり、持続的な未来はあり得ない。そのために必要なことは、自然とわれわれが暮らす世界との距離を近づけることである。 これはニューアーバニズム宣言やコンパクトシティといった考え方にもつながる。どこへでも自動車で移動するのではなく、歩いて移動することによっていろいろものを発見する楽しさ。そういうものに満ち溢れた街をつくっていくべきではないだろうか。
街を歩いていると、自動車で走り抜けたときには見落としていた、様々な楽しみがあちらこちらに落ちていることにきづく。われわれはとても楽しくて豊かな世界にいながら、その種を見落としているのだ。それを一つひとつ発見できるようになれば、豊かさはさらに深まっていくはずである。
P184
農林水産空間を「”生産”という経済的視点に固定し、単なる”産業空間”として捉えるのか」あるいは「農林水産空間の多目的な公益性を維持していくための(つまり水源となり木材資源を供給し、生物多様性や大気・水質などの環境しつを維持するなど)かけがえのない”自然資本財の総合的空間”として評価するのか」と言う根本的な問いかけが重要である。
P188
三つの「収奪」をいかに避けるかを考える必要がある。
ひとつ目は「自然」からの収奪。人間が自然のリズムから生まれる再生量を無視し奪いすぎて、自然の再生力を損なわないようにすること。自然の持つレジリエンス性を見極め、自然が循環する力を活かしていくことが重要だ。
二つ目は、「南」からの収奪。すなわち発展途上国の資源を、先進国の都合に合わせて過剰な供給を強いる。言い換えれば「北」が「南」から収奪しないと言うことだ。地球資源は有限で、なおかつ世界中全ての国で分け合うべきもの。先進国の、いかにも収奪していないと言うような、見せかけの欺瞞は持続性の観点から見ても廃さなければならない。 そして三つ目は、「将来世代」からの収奪。目先の、しかも量的豊かさだけに目を取られ、自分たちの世代の繁栄に目を奪われる暮らしぶりは、地球の環境容量が有限であるが故に未来の世代から奪っていることと同じである。そのことに私たちは気がつかなければならない。
これら三つの収奪をまず意識し、そしていかにコントロールしていくかと言うことが、持続的な未来を作るためには大切なのだ。
P198
「じねん」とは「自ら然り」、すなわち「あるがままの状態」と言う意味だ。人間の世界に対して「しぜん」があるのではなく、人間の世界もまた「じねん」の一部であるという考え方でらる。