2025/4/2
今日は猛烈に仕事をしました。朝9時から18時まで、昼飯も食べず部屋からも出ず、黙々と課されるタスクをこなしました。
9時間ほぼ集中して仕事をしていた気がする。こんな働き方は年に一度で十分だと思っている。
やりたくてやったわけではない。でもせっかくなので、なぜここまで集中して働けたのか、考えてみる。
取引先の部屋で作業をしていたので、他者の衆人環視にさらされていた。
今日中に完了させる必要があり、タスク期限が明確だった。
タスクの手順がある程度、把握できており、タスクの難易度が自分にとって程よかった。
単純作業ではないけれど、やり方が分からなくて困ることもない手順と難易度。
昼飯を食べ損なって空腹だった。
良し悪しはともかく、集中できるコンディションと環境、タスクの質と量が揃った結果として働き続けられた。
でも集中すると一日が本当にあっという間に終わる。集中して仕事をしたほうが、ダラダラ仕事をするよりストレスも少ないと思う。適度に集中して、持続性と没入感を両立させたいけど難しい。
熱中とか没入感とか集中の概念にも憧れを抱いている。何をするにも熱中して没入できる人っていいなと思う。
幸福な生活を送っている人は、自分が幸福かどうかなんて考えない。そこから幸福だと思わないような状態が幸福なのだ、という主張が出てくる
少し話はそれるけれど、個人的に幸福は、その境地に至った時点よりも、むしろ幸福を目指しているプロセスの最中のほうが幸福な状態ではないかと思っている。
例えば幸せな家庭のために家を建てようとした場合、家を建てるために協力してお金を貯めたり家の間取りなんかを考えたりしている時のほうが希望に満ちていて幸福であり、むしろ家が建ってしまうと家を建てることから受ける幸福を感じにくくなるような気もしている。
もちろん家を建てて部屋が広くなったり生活の質が向上したりすることの良さはある。けれど、「家を建てる」ことから受ける幸せな気持ちは、家を建てることを夢見たり、それを実現するために行動している最中のほうが幸せを感じると思う。
幸福はおそらく希望に向けて動けている状態のことで、希望の光が目の前に差しているとその光を目標に行動が取れる。けれども一度、目指した状態が実現してしまうと、ちょうど上から当たるスポットライトを意識しないように、希望や実現に向けた行動が止み、幸福を感じにくくなっている気がする。
変な話だけど、競馬でも馬券を買ってファンファーレを聞くあたりが興奮のピークで馬券に対する夢や希望を感じる絶頂だと思う。レースがはじまってしまうと、馬券の夢に対する現実の結果を直視させられる。
そう考えると、クリスマスよりもクリスマスイブのほうが幸せかもしれない。いよいよクリスマスだぞという直前のワクワクがある気がする。
反対を捉えれば、不幸なひとは、不幸な状態にあることが不幸の原因ではなく、不幸を脱するような希望や幸福の状態を描けない将来性よって、不幸にさせられているのかもしれない。たとえいまが辛くても、自分はこのあとに幸福になれると信じたり考えたりすることができれば、もう不幸とはいえないだろうから。