2025/4/1
#生活ロギング →2025/3/31
今日から4月です。べつに新年度というわけでもないし何か新しく始まるわけでもないですが、何となく心もちがフレッシュなよい気分です。
SUNTORYが毎年、成人の日と4月1日に新成人、新社会人向けに広告を出している。この広告が個人的に好きなので転載。
最初は山口瞳でそのあとは伊集院静だった。同氏がお亡くなりになって、今年からは三谷幸喜が引き継いでいる。
4月1日ver
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成人の日ver
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『さみしい夜のページをめくれ』
「自分にとってほんとうに大切な本を読むときのアタシたちは、本のなかに『自分』を読むのさ。まるで鏡を覗き込んで、しげしげと自分の顔を眺めるようにね」
ジン.icon本を読んでいると、確かにそのなかに自分を投影していることがある
それは単に主人公が自分と似た境遇だからというだけではない。むしろ自分にとって嫌いな人物だったり、あるいは自分が憧れているけどなれなかったりした人物の場合もあるかもしれな
いずれにしても、主人公の目線で物語を進めるとともに、自分の目線から主人公や登場人物について思いをめぐらせることがある。
小説の場合は、特に本のなかに自分を投影することが多いと思う。
では、小説以外の場合ではどうだろうか。やはり少なからず自分が投影されているのではないかと思う。
例えば千葉雅也の『現代思想入門』で出てきたドュルーズの準安定状態やドゥルーズ式執筆術という概念について、最初に読んだときに、自分の仕事ぶりを照らしながら読んでいた。仕事にはじめもおわりもなく、断続的な状態のまま進むとしたら目の前のタスクをどのように捉えることができるか、自然と自分に引き付けている。
そう考えると、読書について作者が展開する物語や主張、解説なんかを理解するときに、読者は作者に手を引かれながら作者の世界を見ているようで、同時に作者の目線にたって自分自身を見つめ直す作業も、読者は行っているのかもしれない。
大げさに言えば、読書によって新たな世界をみることは、同時に新たな世界に立つ自分の姿も見られるのだろう。
ジン.icon週末に時間があればシークレットNGハウスを観たくなってきた。でもFormula1の続きも観ないとだし、名探偵コナンの漫画と劇場版も見直したい。これはもうのんきに仕事してる場合じゃない。