外向きの文章を書くか迷う
外向きの文章を書くか迷う
00年代後半〜10年代前半くらいまでは読み手をかなり意識した書き物をしていた
10年代中盤から読み手をあまり意識しないで書くようになっていった
10年代後半に Scrapbox に本拠を移してからいよいよ読み手を意識的に排除するようになった 唯一の読み手は未来の自分だけ
未来の自分にだけ伝わればいいというテンションで書いてる
なのでしばらくは private で書いてたんだけど、それぐらいのもてなしで読みたい人がいれば、どうぞ、ぐらいの気持ちで public の方をはじめた
聞き手になるのも好きだし、誰かから思いもよらない何かを引き出せたりすると嬉しい
note が出てきた時、過激な tumblr 至上主義者だったので大変に嫌いだったんだけど、数年経ってそれなりの仕組みがあれば「いかがでしたか?」文学に勝てるのか...?と感じないこともなくなってきた 振り返ってみると、自分が閉じていったのは、たくさん読まれようとおもったら強いワードをタイトルに入れるとか、煽りをするとか、そういうやつが無理だったからかもしれない
YouTube のサムネでも「ホ!」みたいな顔した自分の顔を入れるとか、デカくてパワーのある2文字をカチ込むとか、そういうので溢れていてげんなりする 出入りしてるスタートアップで「誰にも読まれてない、使われてないだったらこの世に存在してないも同義だよ!」みたいなことを書いてしまったことがあったんだけど、まんまブーメランで、なんか書いてても誰にも読まれてなかったらそれは書いても書かなくても同義なのではないか...?
未来の自分という強い読者が一人だけいるが...
例えば、登山するのが好きな人がいたとして、独り登って、独り頂上で景色を眺めて、独りで降りてきて、そのことを一切世界に残さなかったらその登山はあってもなくても同じなんだろうか?
これまでの人類史の中ではそういう記録に残っていないことが99%、100%に限りなく近いだろう
似た話題として、最近服に対する認識を改めたところ、妻から不評で話し合ったやつがある
これまでは衣替えをすると柄のワイシャツみたいなのをメインに着る感じで、それなりに垢抜けて見えるようにしよう、という意識があったんだけど、スパルタンレース向けにラクな服を買ったりしたら「これでいいじゃん」となってしまった 俺が俺にとってラクな格好をしているのが一番優先度の高いことで、それが他人からどう見えようと知ったこっちゃない、とおもった
が、それでよしとすると「じゃあ裸で出るのでいいんですね」もオッケーになっちゃうので、やっぱりある程度の妥結が必要というか
外向きの MAX はやっぱり出版だとおもうんでセンパイの五十嵐さんはマジで尊敬する 俺は何をしたいんだ!!!!!!!