世界の解像度と価値
世界の解像度と価値
今日は畑の雑草を抜きまくってきた
自分にとってはただの雑草でも植物が好きな人からしてみればいちいち名前があって、なぜそこに繁茂しているのか、みたいなところまで想像力を働かせることができるんだよなあとおもった 自分にとってはどのギターの旋律もカッコよくてイイジャン感あったけど、ずっと「これじゃないなあ、これじゃない」ってテイクを重ねていってて、それは音に対する解像度が違うんだなあと
神田伯山はアニメの収録で監督に何回もテイク重ねることを要求されたという話をしていた これもアニメ監督にとっての台詞への解像度が高いということなんだろうなと
言葉?詞?に対して解像度が違うのだろうと
パソコン一般がパソコンだとおもう人からしてみたら Windows なのか mac なのかはどうでもいいことなのだ 妻や妹は車に興味が皆無で、妹に至っては小さいかずんぐりか、あと色、ぐらいの違いしかないそうで
価値の根源とは、ヒトとヒトとのこうした世界に対する解像度のズレから生じるものなんじゃないかとおもった
280円の価値があると感じるためには、まずその解像度が必要なのかなと
世間ですごいすごいと言われている羽生善治や藤井聡太のすごさを真に理解するためには、やっぱりある程度将棋のリテラシーが必要なんだろうとおもう 自分は幼少期の時点で TCP/IP によるネットワーク網の中で育って、当たり前のように GUI のコンピュータと暮らしてきたけど、後年になってたくさんの人の尽力の先に全て成り立っているんだと知った時はクラクラした けど、世の中の大半の人は別にそれを意に介することもなく生きているわけで
アニメ版のスラムダンクを「ふーん(号泣)」てみてきたけど、バスケの解像度高い人とか、アニメの解像度高い人からしてみたら全然違ったみえ方をするんだろうなとか