フィクションを作り手と分離できるか
東京ポッド許可局の面白かった議論論でタツオさんが触れてたんだけど、文学の論評で作者と分けて論ずるか、作者のバックグラウンド込みで論ずるかの2派に分かれるらしい 若かりし頃はピュア〜に創作を創作として受け止められていたんだけど、歳を食うにつれ不可分だなあ、に傾いていってる
これも存命の人が対象か、死んだ人が対象かってとこにグラデーションがあって、個人的には死んだ人に関しては別にまあ....っておもってて、現代の杓子定規でジャッジするのはちょっとズルいというか
バルト三国でソ連時代の彫像を打ち壊すとか、アメリカで南軍の有名人の像を引き倒すとか、まあ......気持ちとしてわからいではないけど、乱暴だなという気持ちがなくはない 70,80年代のいろいろなヤベエ映画が同様の括りになったらキツいなって
ジョンソンが抜け駆け的にヘンリー・カヴィルのシーンをいれてきたことに腹が立つし、その後ヘンリー・カヴィルが降板になったこと自体にも腹が立つ
GotG3 面白かったけど、クリス・プラットに対してう〜んという気持ちがあるので、そのチャームさが垣間見えればみえるほど、渋い気持ちになったのだった... でもさーーーーー.....こうやって清廉潔白さを求めて切っていくのもなんか違う気もするんだよなあ.....
でもそれを笠に今起きている悲しいことを無視するのも違うよなー....しかし....全員は助けられないんだよなー.....(スパイダーマン) なるほど堕姫が廓の嬢で牛太郎ってことなのか〜....深い!っておもった ...おもったんだけど、(若干ネタバレになっちゃうけど)作中のさとさんはいたたまれなかったし、堕姫や妓夫太郎も基本的にはいたたまれないし、いつの時代も貧困というのはそういうのと隣合わせなんだよなあ.....そして現代にも新宿やら大久保やらにいろいろなさとさんや堕姫がいるんだろうなあ......って考えるとなんかこう....同世代をのうのうと生きてる自分って....みたいな気持ちにもなる