「プライバシーの保護」は日本人のプライバシー意識の高さとは別に、ある種の方便として用いられてきた
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日本の国民管理の基本となってきたのは戸籍制度です。戸籍制度の特徴は、個々人を血縁集団である「家」を通じて把握しようとするところにあり、その背景には血統主義によって日本人の境界を確定させようとする考えがありました。
同時に政府は戸主に徴兵の免除や参政権といった権利を与える代わりに徴兵や徴税制度の運用の末端を戸主に担わせ、戸籍制度はたんなる住民管理だけではない側面を帯びていくことになります。
第二次世界大戦後、「家」制度は廃止されましたが、戸籍制度はそれほど大きな変化を被りませんでした。戦時下では配給制度の運用などのために世帯台帳がつくられ、それが住民票へと進化していくのですが、1951年の住民登録法で住民票と戸籍の連携が図られたことから戸籍制度は生き延びていきます。
90年代から戸籍事務のコンピュータ化が始まりますが、ここでも戸籍制度の抜本的な見直しは行われず、逆に各市町村で独自のシステムが導入されたことから、戸籍制度は分権的な性格を強めました。
住民把握の基本に戸籍制度が残り、それが分権的な性格を強めたことによって、「国民総背番号制度」の導入は難しくなりました。
1969年、行政改革本部において第二次行政改革計画の政府案が内定し、そこには「個人コードの標準化」(71p)が盛り込まれていました。ところが、この計画に対して労働組合(自治労)が反発します。
1971年の「広域行政・コンピューター集会」では、「情報の民主的管理と運営」、「人間疎外の克服」、「プライバシーの保護」という3つの原則が提起されます。自治労にはコンピュータ化が雇用を奪う、あるいは職場環境を悪化させるという認識があり、それが「プライバシーの保護」と絡めて主張されたのです。
さらに70年代になると各地で革新自治体が生まれますが、革新首長にとって労組は支持基盤の1つですが、当選するにあたって幅広い支持が必要な首長にとって、「合理化の阻止」よりも「プライバシーの保護」の方がはるかに通りのいい主張でした。
70年代後半、大蔵省でグリーンカード制度の構想が持ち上がります。大蔵省は「マル優」や郵便貯金などの非課税貯蓄の透明性を確保するために、このカードとカードに記載された番号を使って銀行口座の「名寄せ」を行おうとしました。
1981年にはグリーンカードシステムを開発するための予算も計上されており、順調に制度は導入されるはずでした。
ところが、81年に自民党のグリーンカード対策議員連盟が発足し、翌82年になると反対論が盛り上がります。この自民党内の反対論は主に郵政族議員から上がりました。グリーンカード制度が計画されたときは田中派の竹下登が大蔵大臣を務めていたため、田中派の郵政族は表立って反対できませんでしたが、大蔵大臣が渡辺美智雄に代わると、田中派の金丸信が反対に動き出します。そして、その自民党内の動きを追うように新聞などでもプライバシーの懸念が報じられるようになるのです。結局、このグリーンカード制度は83年に断念されました。
1999年住民基本台帳法が成立し、2002年から住基ネットの運用が開始されます。しかし、この住基ネットも順調に運用が開始されたわけではありません。
住基ネットが可動するとなると、福島県矢祭町、東京都国分寺市、杉並区、三重県小俣町、二見町、神奈川県横浜市と、住基ネットから離脱する自治体が相次いだのです。ここでおプライバシーへの懸念が唱えられましたが、著者はこの時期に行われた地方分権改革とそれにのった改革派首長の動きがこの背景にあったと分析しています。
この章では住基ネット離脱の動きを先導した杉並区の山田宏区長の動きが分析されていますが、山田は元衆議院議員で杉並区長を辞めたあとも国政に復帰している人物です。彼にとって国と自治体の対等な関係というものが重要であり、それを示すために選ばれたのが住基ネットだったという側面もあるのです。
第3章は「情報化政策の逆説」と題して、通産省の産業政策がかえって統一的なコンピュータシステムの導入を阻んだ経緯が明らかにされています。
日本のコンピュータ産業は少なくとも20世紀までは順調に発展しており、技術不足が国民総背番号制度を阻んだわけではありません。
もともと自治体の使用するような汎用コンピュータの世界ではIBMのシェアが圧倒的でした。これに対して政府、特に通産省は国内のコンピュータ産業を育成する政策をとっていきますが、その政策の1つが政府や関係機関での国産コンピュータの優先的な導入でした。この政策によって、中央省庁におけるシェアは73年の段階で、NEC32.4%、東芝24.8%、富士通23.0%、日立12.2%、沖電気5.5%となりました(111p)。地方自治体でもこの5社に三菱電機とIBMを足した7社がシェアを握ることになります。
当時の汎用コンピュータは複数の機械からなるユニットで、当時の23区では20~30名規模の組織が導入にあたって発足しました。当初は税や給与などの計算に使われていたコンピュータですが、中野区は60年代後半から住民管理にも用い始め、徐々にその他の自治体へも広がっていくことになります。
自治体におけるコンピュータの活用は上からではなく、自治体独自の取り組みとして広がっていきますが、それが強固な分権的システムをつくり上げることになります。
また、国内のコンピュータ産業を育成しようとした政策が、次期システムの選択に際して既存のシステムを無視できなくなる「ベンダーロックイン」といわれる状態を生み出しました。122pの図3-5では、65~95年の東京23区の使用メーカーが示されていますが、途中での東芝の撤退による影響を除くと あまり変化がありません。そして、こうした中でメーカー独自の文字コードなどが使われるようになり、システムの変更はますます難しくなっていったのです。
そして、これが集権的な国民管理システム構築へ向けた大きな障害となります。
50年も前からやろうやろうつってやれてないのマジにつらいな...