リスク管理と教学IR
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2020年2・3月から高等教育機関に対しても大きな影響を与えている新型コロナウイルスによる感染症の拡大によってIRがどのような影響を受けているか,あるいはIRは何ができるかについては,すでに様々な角度からの分析や提言が始まっています(例えばSimpson 2020).本稿では,いわゆる「コロナ後」の「教学IR」に焦点を当てて,今回の危機から私たちが何を学び取り,どのような準備ができるのかを考察します. 1.危機・リスク・IR
そもそも危機とは,変化の速度が速すぎて通常の対応では適切に対処できない状況のことで,現代のように多様な情報収集が可能な社会では,あらかじめ把握できているリスクが急速に顕在化する形で現れるケースがほとんどです.具体的には,小惑星の衝突から脅迫による授業中断まで「予想もつかない原因で起こる危機」はほとんど存在せず,何らかのリスクとして事前に想定できます. そうであるなら,リスクが顕在化する可能性(危機の発生確率)と影響の大きさをきちんと見積もって対応を考えておくことが重要です.そして,感染症の大規模流行は,決して低い確率で発生するものではありません.実際,21世紀に入ってから日本の複数の大学が影響を受けた感染症だけに限定しても,関東地域の大学生の間ではしかが流行していくつかの大学キャンパスが閉鎖された例(2007年)や,新型インフルエンザの流行によって全国で多くの大学が休講になった例(2009年)などがありました.
つまり,感染症によって,大学が対面授業による教育や図書館や体育館などのキャンパス設備を提供できなくなる状況は,誰も経験したことがない想定外の出来事ではなく,IRのように各種データを収集分析する部署は,少なくともリスクのひとつとして何らかの事前分析やシミュレーションの準備をしておくべきでしょう.では,感染症によるリスクとはどのような性質を持っているのでしょうか.リスクマネジメントのプロセスに沿って考えてみましょう. 2.リスクの因子
リスクマネジメントのプロセスは,おおまかにリスク因子の評価,リスクアセスメント(リスク管理パフォーマンスの測定),改善という段階を経ることになります(仁木 2009).また,大学を事業として捉えた場合,事業そのものの不確実性(金利や売り上げの変動)によって引き起こされる「事業リスク」と,従業員の不正や災害によって引き起こされる「オペレーショナルリスク」があります(甲斐 2007).
感染症は直接的にはオペレーショナルリスクであり,事業リスクは,間接的な影響(経済状況の急速な悪化)によるものです.そこで,まず,大学教育にとってのオペレーショナルリスクを予測可能性と被害防止可能性から整理すると,表1のようになります.なお,この表には,学生側のコストを掲載していませんが,表1にあげたリスクのほとんどは学生側にも大きな影響を与えることになる点にも注意が必要です. 表1 大学が対面の教育を提供できなくなるリスクの種類
https://gyazo.com/9f0627fdb0537a12b5d0af0444dc6e07
3.リスクのアセスメント
次に,リスクが顕在化する確率,つまり危機の発生確率,損失上限,コストという3つの要素を比較検討してみます.ここで損失上限とは,リスクが顕在化して損害が発生しても許容できる最大値のことです.例えば,休講が続く損失上限は,オンライン授業など特別な措置で対応しなくても,学事歴(授業スケジュール)の変更で対応できる期間のことになります. 実は,これらの要素のうち最も算出するのが難しいのがリスクの顕在化確率です.大規模災害のうち台風や大雨などはある程度予測できますが,その他のリスクは予測するのが困難です.実は,COVID-19のように海外から徐々に感染が広がってくるのは,東日本大震災のように突発的な危機と異なり,備える期間がある程度あったと言えます.
それでは,大学が2学期制を取っており,定期試験期間を含め16週授業期間があるとしてシミュレートしてみましょう.学生にとって夏季休業11週間,冬期休業2週間,春季休業7週間とします.教員側の事情として,各学期終了後2週間は補講と採点に必要であり,後期終了後(春季休業中)最低1週間は入試業務があると想定します.すると,損失上限は前期で最長9週間,後期で4週間となります. 一方,休講対策としてライブとオンデマンドを併用したeラーニングを提供するとすると,その導入コストはシステム(ハード・ソフト),初期コンテンツ制作,初期人員(主に技術人員と,コンテンツ作成人員)となります.また,運営コストとしては,システム管理・バージョンアップ,追加コンテンツ制作,運営人員(主に技術人員と,学習支援人員),コンテンツのリプレース(製品としての寿命に対応)があります.もちろんこのようなコストは,学習管理システムを学内に置くのか,クラウド・ASPを活用するのかに従って異なりますが,運営コストを考えると大きな差はないと考えられます. 4.リスクへの備え
さて,ここまで述べた要素や概念から,どのようにリスクを捉えて,どのレベルの準備をすればいいのか具体的な想定とともに考えてみましょう.後期授業期間で考えることとして,流行病の危機が発生する確率が0.25(4年に1回程度),いったん危機が発生した場合に予測される全学休講日数を$ T日,eラーニングを1日提供するコストを$ x円とします.また,判断基準として,a)損失上限を超える事態を防ぐ,b)1日でも休講を防ぐの2種類を想定します.そして,事前に想定されるリスクからeラーニングへの投資額を決めるとします.つまり,危機が発生していない時点でのリスクヘッジとしてのeラーニングへの投資額の算出です.
a)の場合,$ 0.25×x×T×(Tが28日を超える確率)
b)の場合,$ 0.25×x×T
今回の危機は,未知の感染症の場合,Tが数か月単位で長引くことやZoom,Teamsなど既存のオンライン会議ツールを使えば$ xのシステム面は低めに抑えることができること,通信制のコースを持っていない大学では$ xのコンテンツや人員におおくの資源を割かなければならないことを明らかにしました.
なお,ここまで読んでいただければお分かりのように,このような作業をリスクごとに行っている日本の大学はほとんどありません.一方で,教学IR担当部局であれば,$ xを事前に見積もっておくことは可能です.大規模災害から人為的要因まで,上記のようなリスクを想定して,分析可能なデータから非常時の教育質保証の一環として防止策や代替策に対する投資額決定の参考にしてみてはいかがでしょうか.
このコラムの内容は,新型コロナウイルス感染症の拡大を受けて,松田ほか(2012)を加筆修正したものです.
参考文献
甲斐良隆(2007)事業リスクと災害リスク管理の統合効果,ビジネス&アカウンティングレビュー Vol.2,pp.1-9
松田岳士,雨森 聡,森 朋子(2012)通学制大学はe ラーニングをどの程度まで実施すべきなのか-リスクヘッジとしての分析手法の検討-,教育システム情報学会第37回全国大会講演論文集,pp.68-69
仁木一彦(2009)図解ひとめでわかるリスクマネジメント,東洋経済新報社,東京
Simpson, S (2020) How COVID-19 Is Impacting IR/IE Right Now, , Accessed on 03, May, 2020 ※当コラムの文責及び著作権は、すべて投稿者に帰属します。