『豊饒の海』ノート
三島由紀夫の『豊饒の海』について、むかしてけとうに書いたメモに加筆していくノート。
初めにすべてが予告されているということ謎も何もない、ぜんぶ書いてある象徴が複雑なのと暗示が多いから、一見難解に見える絶対の不可能、不可能の絶対
「ドン・キホーテ」以来、小説というジャンルの主題はおそらく一定不変であって、小説の永遠性とは、いつにかわらぬ小説家の永遠の|なげきぶし(原文傍点)にひそんでいるのかもしれない。何故なら小説家は、さまざまな仕方で現実に接触するが、「書く」という行為が介在する以上、小説家は永遠に現実そのものに化身することはできないからである。本当に「書く」という行為を、生き愛することと同じ意味にまで引っ張って行ったスタンダールやバルザックが、あいもかわらずわれわれの師表たる所以である。三島由紀夫 石原慎太郎氏の「亀裂」について
(めちゃ主観入ってる読解)
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1巻13章
4,p308なぜか? それは本多が認識者であるからである。何を認識するかというと、転生する四人(三人)の若者を認識するのである。なぜ認識者が必要なのか? 輪廻転生者の前世の記憶は幼少期までしか持続せず(記憶は持続しやがて消長するものなのか、常に存在するものなのか?)、客観的な目撃者が転生の成立には必要だから。記憶もなければ何もないところへきてしまった(4巻)輪廻転生の主体は何か? 阿頼耶識である。阿頼耶識とは何か? 輪廻転生の主体を案じたときに阿頼耶識が捻出された。 阿頼耶識が迷界を観じ、また迷界がなければ解脱もない。本多はずっと阿頼耶識を観ていたのか? 観ていない。本多が見ていたのは四人の若者である。本多の認識は最終的に覆される。 本多は四人の若者を見て記憶し、唯識について知識を記憶しただけ。 本多はたびたび、万象に四人を見てしまう。cf.タイの景色、奈良の景色 鏡子の家の画家の変奏。輪廻転生は否定されたのか? 否定されているし、否定されていない。否定されたのは(空観のような意味での)輪廻転生観とでもいうものである。輪廻を否定することは結局、ある観点にとらえられることであるから。 昔は、永劫回帰によって輪廻転生を否定した!みたいに考えていた。刹那刹那に世界が滅しまた顕れるのであれば、その刹那刹那を観じているのは何なのか、阿頼耶識だ、全ては阿頼耶識だ、ということか。本多は本当に何もないところまで来てしまったのだろうか? これはもってきかたが早いな。そうではなくて、本多のいう「認識」とは本当にイコールで阿頼耶識なのか(そもそもそのように言明されたことはない)? それもこころごころですさかい(4巻)
3,p163
「輪廻転生は人の生涯の永きにわたって準備されて、死によって動きだすものではなくて、世界を一瞬一瞬新たにし、かつ一瞬一瞬廃棄してゆくのであった。」
1,p277 白鳥、転生
輪廻転生の淵源たる阿頼耶識。流れる瀧。暴流。三巻で、富士山の残影を観ずる場面。最終場面に瀧は存在しない。が、本多は庭に瀧を見ている。枯山水。つまり四巻を通して、本多の阿頼耶識(この言い方が適切かわからないが)に瀧のヴィジョン(つまりは清顕たち)が薫習した。聡子は清顕を否定する。本多は途方に暮れる。庭を観る。「この庭には何もない。記憶もなければ何もない」そこに不在が在る!不完全ながら?、本多の別荘で観た不在の富士の幻影が、おそらく圧倒的な形で、おそらく阿頼耶識の瀧のヴィジョンとして、本多の最初で最後のドラマとして現前した。そういうことは一言も書いてない。 三巻……十八、十九
蓼品。日本的語り。じわっとした批評性。古典の、長々とした語りを思い起こさせる。 卵を食らう→蛇。だが蛇も卵から生まれる。 ジェイムズ・ジョイスと三島由紀夫 三島由紀夫は『ユリシーズ』を複数の訳で所持していた 井上隆史は『暴流の人』で関係を指摘しているヴィーコ……豊饒の海に登場。ベケットが評論でジョイスと関連づけ。
……
永劫回帰を用いた前向き?な或る解釈 永遠回帰 より正確には〈同一のものの永劫回帰〉 ツァラトゥストラの序盤には出てこない 輪廻転生と永劫回帰は対立する。『豊饒の海』はそれを正しく捉えている。 1328 輪廻転生が、個のサイクルが別の存在に変化しつつ回る永遠の変化の摂理だとすれば、永劫回帰は全存在が一続きの直線的な流れであり、同時に一つのサイクルであるという摂理である。あらゆるものは変転するが、変転は再び繰り返す。つまり、同時にすでに無数に繰り返されている。 なぜ繰り返すのか。繰り返さないなら、二つの解決が導きだされる。 輪廻転生、最後の審判 輪廻転生において、同じ繰り返しはない。繰り返すことなく変化しつづける摂理だけが繰り返す。 最後の審判。 極めて強力なこれら二つのメカニズムは、しかしこれらのメカニズム自体を前提として生きることを要請する。 永劫回帰のビジョンは、これらを統合し、またメカニズムを相対化する。われわれは永劫回帰をメカニズムとしてではなく、ビジョンとして、原理ではなく、渇望として持ちえる。永劫回帰を前提とせず、かくあることを欲する。今そうあることを意志する。 輪廻転生のように来世に持ち越さない。最後の審判のように終末を待ち望まない。 目標を持たない世界観の中で、或る世界観に依らず、われわれが目標を持つ divider.icon
一巻二巻と三巻四巻は明らかな別物であるのに、ひとつの作品としての体裁を持っている。さらにいえば、それぞれの巻もまったく違う。 大勢の拍手は先入観から同じに聞こえるが、演奏会ごとにまったく違う。一つの作品に、真逆のものが同封されている。それを連結する力は、「物語」では済まされない、異常な力。 各巻の、独立しようとする力。作者の手を離れかけている。巧妙な観念操作。
やりたいこと でてくる鳥 でてくる花
海。狂気とは、海のなかの荒れ狂う海域を指して名づけるようなもの。莫大な体積をもつ詩。詩とは、ふつう凝り固められた錠剤のようなもの。 悪は錠剤云々→天人五衰いうまでもなく、ジン・ジャンよりも本多のほうが深刻な狂気に侵されている。 自意識
モラルとは、「そこに己が在る行為」。逸脱したモラリストたちのドラマは、悲劇やロマン主義と関連づけられる。
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各巻
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「しんと」十一単行本p82
松枝公爵邸 池 中ノ島 三羽の鶴像
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高等文官試験(こうとうぶんかんしけん)は、1894年から1948年まで日本で実施された高級官僚の採用試験である。1918年の高等試験令(大正7年勅令第7号)以後の正式名称は高等試験、高等試験令施行前の正式名称は文官高等試験だが「高文(こうぶん)」や「高文試験」と略されることも多かった。高文は日本の属領地(もしくは植民地)であった朝鮮や台湾でも行われた。 三島由紀夫も合格 大阪右陪席 左陪席
28歳で結婚(1922年)
p7 代書屋のような
〘形動〙 神仏の利益(りやく)、霊験などが著しいさま。あらたかなこと。はなはだ明らかであること。
この間、人間臨終図鑑を読んでいて、そうだったのかと初めて得心がいきました。安田善次郎は宝生流のパトロンだったんです。@takimaturi: いつか奔馬を映画化して、能のシーンを入れてくれたらいいな。誰かが野口兼資にならなければいけませんが、観阿弥や世阿弥になるよりはいいでしょう。@takimaturi: この小説は、安田財閥の創始者である安田善次郎が朝日平吾に刺殺された事件を下敷きにしているのですが、かつて「宴のあと」でプライバシー裁判を起こされた三島は、モデルが祟らぬように、手向けとして故人の愛好した宝生流の能を作中に仕込んだんじゃないか、というのが思い付いた個人的な妄想です。 汐汲車わずかなる浮世に廻るはかなさよ
文庫版p253、十九code:honba時の流れは、崇高なものを、なしくずしに、滑稽なものに変えてゆく。何が蝕まれるのだろう。もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおおい、滑稽が内奥の核をなしていたのだろうか。あるいは、崇高がすべてであって、ただ外側に滑稽の塵が降り積ったにすぎぬのだろうか。
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p295ジン・ジャン、合歓の葉p311 今西、破滅、鏡子の家のサラリーマンp328梨枝の顔。月の表面。しんとして。p330 ホテルの中はしんとしてp356「歴史に関わろうとする意志」の放棄p396本田の認識 仏教のニヒリズム的宗教は、美しい夕を、完結した甘美や柔和を表現する、――それは、おのれに欠けたもの、すなわち、辛辣さ、幻滅、怨恨をふくめての、おのれが背後にしたすべてのものに対する感謝であり、――結局は、高い精神的な愛である。哲学的矛盾をみがきあげることなど仏教の背後にしてしまったものであり、それにわずらわされず安息してはいるが、しかし仏教は、その精神的栄光と落日の耀光をやはりこのものからえたのである。(――最上層階級からの血統――。)『権力への意志』上巻p164(断章154) ……
月『美しい星』に連なるテーマ海≒地球のメタファー⇔地球からみた宇宙(『死靈』)p11 堤の上には乏しい松が、新芽の上に赤いひとでのような花をひらき、帰路の左側には、さびしい小さい四弁の白い花をつらねた大根畑があり、道の左右を一列の小松が劃していた。そのほかはただ一面のビニール・ハウスで、蒲鉾形のビニール覆の下には、夥しい石垣苺が葉かげにうなだれ、蠅が葉辺の鋸の刃を伝わっていた。手紙 『潮騒』を確認する。鏡子の家密告。陰謀物語の展開近代能楽集透若菜下の逆 透が汀と関係する→百子に汀と透を別れさせるための手紙を書かせ、本多に言いつける→婚約は破棄 柏木と女三宮が密通→柏木からの女三宮への手紙が光源氏に見つかる→光源氏が柏木に皮肉を言う→柏木は死ぬ。女三宮は薫を生み出家 自意識。 自意識は悪である、悪とは自意識である。 サミュエル・ベケットの問題と 夏目漱石から太宰治を経て続いてきた近代文学のテーマ→解消 ……
本多はドン・キホーテ。本ではなく転生者との体験に狂う。
それぞれの時代で、若さというもののかたちが変わった 『暁の寺』では、戦争で多くが死んだので日本から離れた若さ Song To The Sirenを聴きながらふっと思ったのは、清顕への思いを聡子に確かめようとする本多は、究極のおせっかいだったんじゃないか、という感想だ。いうなら悲恋をハッピー・エンドに変えようとするいじましい執念だ。本多は死んだ清顕を想って、ひょっとしたら聡子への淡い想いがあったんじゃないかとも思うが(憧れの人どうしのカップルに対する憧れの感情はよくわかる。神さまみたいな人たちに幸せになってもらいたいというのは神さまではない私たちの祈りだ)、聡子は、ずっと、誰かを待っていたわけではないことは、本多にもわかるはずだ。聡子は魔性の女でもないし、聖女でもない。得体の知れない聡子の姿をつくるのは、本多の心だ。何もない夏の庭を見て、心が震えるのは、本多の心が本当に解放されたからだと思う。こういう読み方をした人は少ないかもしれないが、あのラストの後、本多は慶子に電話すると思う。 ギリシア悲劇の歴史とHnUの構造