Report
印刷物を中心とした空間表現の探求
An exploration of spatial expression centered on printed materials.
1 研究の背景
まずは本研究の背景を、私たちはどのようにして印刷物から情報を読み取っているのかという視点で整理する。
1-1 情報とメディアは切り離せない
私たちは、文字や図版などをはじめとする様々な情報を共有するために、情報を物に定着させる技術を開発してきた。粘土板やパピルス、活版印刷、ディスプレイなどの情報を、記録・伝達・保存に用いられる物や装置のことをメディアと呼ぶ。情報をメディアに記録するには、必ず即物的な性質が伴うことになる。例えばモノクロの印刷物は、紙にインクが定着することで、紙のままの部分とインクが乗った部分での光の反射に差異が生まれる。差異のある光は網膜へ到達し、その差分を情報として認識している。同様にディスプレイでは、バックライトのオンオフで差分を作り出しているように、情報を出力するには、光を操作することによって異なる質を作る必要がある。つまり情報とは、光の操作によって生み出された質の差分であり、それを作り出すメディアと切り離すことはできないと言える。
1-2 メディアと身体の距離
情報を読み込む時、記録しているメディアと人間の身体もまた切り離すことのできないものであると言える。視覚情報を例にすれば、網膜へ届く光が作る像を情報として認知するための焦点距離や視野を確保する必要がある。
1-3 人はメディアの即物性を無視する
人は、視覚で捉えられるものの中から、読み解くべき対象へ注意を集中させることで特定の情報だけを認識する。注意を傾けることによって、物理的に切り離すことのできない立ち並んだ情報の中から必要な情報だけを読み込むことができる。例えば、本稿を読んでいる時、文字がどんなメディアで表示されており、どんな手触りであるかなどが意識されることは少ない。椅子の座り心地や、メディアの他に目に映る景色など、インプットされ続けるあらゆる情報は、今読み解いている内容と関係がないと認識しているためである。適切に無視された情報は、物理的には切り離されないまま、人の情報処理によって切り離されていく。一方で、読み込む文章の中で、適切に無視をしている物への言及がされた時、その無視が解除される時がある。この時の情報、メディア、環境、身体の間で生まれる関係性を紐解くことで、一枚の印刷物が空間表現の装置として機能するのではないかと考えた。これまで平面表現として、空間と切り離されてきた印刷手法を用い、その場に空間表現として立ち上げることが本研究の試みである。
1-4 無視された情報が引き出されるには
人は、情報の記録されたメディアに遭遇した時、メディアは記録された情報のバックグラウンドであると捉えやすい。それは、メディアが情報を記録するものであることからメディアを主題として認識することをしないためである。しかし、主題である情報が抜け落ち、メディアが主題になる状況が発生することがある。私は、ある商業施設で、【図1】の状況に直面した。これはトイレを示すピクトグラムである。このピクトグラムは、私の身体よりも大きいサイズでデザインされており、その一部が、剥がれかけていた。【図2】トイレに入ろうとパッと目にした時には、それを男性トイレの記号として認識したが、入り口に近づくに連れてピクトグラムの全体が見えにくくなる代わりに、その剥がれた部分がとても鮮明に見えた。遠くから見た時は、ピクトグラムを優位に認識したが、近づいた際に、ピクトグラムの全体像が視界から外れ、カッティングシートの形状や質感が優位になっていった。認識の対象が、私の身体の位置が変わることでピクトグラムからメディアへと移り替わったのだ。この時、私は無意識の中でメディアよりも優先してピクトグラムに注意を向ける判断をしていることに気がついた。この現象を構成する要素を整理すると、以下の要素に分けられる。 ① 情報(ピクトグラム) ② メディア(カッティングシート) ③ 環境(トイレへ向かう狭い通路) ④ 鑑賞者(移動する私)
これら四つの要素の関係性に着目することで、注目される情報と適切に無視される情報の関係を結び直し、印刷物と空間が関わり合う表現を作り出せるのではないかと考えた。
1-5 研究の目的
1-4のような経験から、私はメディアの即物的な性質と人が行う注意の優先順位に着目することで、印刷物とその場の空間が相互に関係し合う新たな表現手法を獲得できると考えた。主題として扱われないメディアの素材としての側面を、記号の造形が持つ質感と関係させることで、印刷物を中心とした空間表現を実現させることが本研究の目的である。
2 物理的な性質をもつ印刷表現
ここから実際に制作した作品を事例として取り上げながら、印刷物を中心とした空間表現の探求について整理していく。
2-1 印刷物の即物性の再認識
まず最初に、印刷物の即物性を再認識させるために、文章でメディアや環境について言及することで鑑賞者の注意の誘導を試みた。
《展示としての印刷物》で試みたのは、文章を読む体験の中でメディアや環境に言及することから、意図的に鑑賞者の注意を無視された情報へ移行させるということである。この作品体験によって、印刷物は奥行きを持った物体であり、空間をともなって存在していることを実感させることを目指した。以下の文章を印刷した紙を壁に貼り、一つの角がそりあがったものを制作した。 「文章を読んでいるとき、それが紙にインクが乗ったものであることは、自明であるが意識されることはない。それは、内容を理解することに関係がないと知っているからである。例えば、この左の句読点には黒胡麻が用いられているが、文章を読み込もうとするとそれくらいでは、目線を止めない。ちなみにそれは嘘である。突然、内容にマテリアルが関わることで、目線がぎこちなくなっただろうか。一方で、この文章に向かって右下の角が若干反り上がっていたりすることは、意識されるまで気に留めることがないかもしれない。そこには反射光によってグリーンの空間が広がっているが、それは文章を読み込むこととは全く関係が無い。」(展示としての印刷物,板倉諄哉,2021)
ここでは、印刷物を読む時、メディアそのものに注目していない鑑賞者の状態を利用し、文中でその状態を言及することから、無視されていたメディアそのものへと強引に意識を向けさせる。言及された時、メディアの状態を確認し、再び文章を読むことに戻ることで、鑑賞者は、注意を作為的にずらされていることを理解する。論文などでよく見られる添付された図版を見るために一度文章から目を離すことに似ているが、この作品では印刷のマテリアルや印刷物自体の状態の確認が求められ、平面として捉えていたそれに繊細な立体感が伴っていることがわかる。さらに、本作品を展示する際につけたキャプションには以下のように記されている。
「この文章は、あなたの認識の焦点がどこに向けられているか、そのスケールを確認するためにある。自然と合わせた焦点は、果たして対象を正確に捉えているだろうか。無意識的なフォーカスを繰り返す抗えなさは、この手元の文章を読むことの中にも生じている。」(展示としての印刷物,板倉諄哉,2021)
与えられたコンセプト文を読む時にも、文章を読もうとする注意の選択が発生してしまう。この作品における鑑賞者の体験を通じて、与えられた文章を文章として認識してしまうことに抗うことは非常に難しいということがわかる実践であった。
2-2 メディアへの慣れ
印刷物が壁に貼られている時に、自然と内容に注意を向けるのは、メディアによって読み取るべきエリアが定義されているからだと考えた。印刷物やディスプレイなどは、外形によってどこからどこまでが、読み取るべきエリアであるかが指し示されている。私たちは、普段の経験によってどこまでがメディアであるかを意識することなく注意を固定することが可能になっている。メディアに対する慣れや安心がこのスムーズなフォーカスを可能にしているのではないだろうか。もしメディアによって定義されている領域が不安定になった時、人の注意はどのように変化するだろうか。
2-2-1 印刷物の構造の再構築
印刷物の構造を整理してみる。印刷物は、大きく分けて三つの要素で構成されている。
1 : 記録される「情報」
2 : それを支える「メディア」
3 : そのメディアが存在している「環境」
この三つの要素は、"環境→メディア→情報" の順番で重なっており、印刷物は、このレイヤー構造が安定することで、鑑賞者は、自然と情報に注目すると考えられる。
《Graphic Surface》【図5】では、「普段見ている印刷物は物質としてそこに存在している」という実感を与えるための実践として、2-2-1で述べた印刷物を構成する三つの要素の境界を破壊することを試みた。境界を破壊するために、紙を壁に部分的に埋め込む処理を行う。それによって、メディアと環境が溶け合う不確かな状態が作り出される。その上面へ図案の印刷を施した。それにより、本来"環境→メディア→情報"の順で固定されていたレイヤーが部分的に狂い、場所によっては、"情報→環境"とメディアのレイヤーが消失することになった。実際に印刷された図案は、紙と壁どちらに印刷されているのか捉え難いものとなり、表層が不確かな印刷物を作り出すことができた。不確かな印刷物を目の前にすると、図案に集中するべきであるという暗示が打ち消され、その質感やレイヤーの有無に注目が集まった。作品自体は極めて平滑であるのにもかかわらず、物質の様子が強調され、鑑賞者の読み取るべき対象が図案から、レイヤーの乱れたメディアの状態、そして環境そのものへと拡張されていく様子が伺えた。作品から離れてみたり、反対に至近距離で見るなどといった鑑賞行動が発生し、これまで当たり前に潜在化されてきたメディアの即物的な側面が鑑賞可能な存在として認識されたと考える。これまで情報へ向けられていた注意は、メディア、環境へと移行することで、無視し続けた世界そのものを鑑賞可能にすることが期待できる。 2-3 図案が環境の影響を受ける印刷手法
《Graphic Surface》では、メディアが環境の一部である"建築"に交わることで即物性、空間性が印刷物に付与されたが、環境に含まれるその他の要素とも交わるには、どうのような方法が考えられるだろうか。例えば、差し込む光による反射や、人の流れによって起こる風、音の響き、建物の振動など、印刷物が環境の持つ動的な影響を受け取れることができるのならば、印刷物に対し、さらなる空間性を付与することが可能になると考える。 《unidentified》では、図案が環境に流れる風や人流の影響を受ける印刷手法の開発を試みた。本作では、ベクターデータを出力できるプロッターを印刷機として扱い、紙をカットすることで図案を印刷するものである。1mm程度の間隔のストロークでカットされた紙は、風を受け止め、繊細に揺らめくことができる。その現象をグラフィックエレメントとし、図案を描くことによって図案自体が環境に影響を受けるようになるように設計した。目に見えない空気の流れが図案を揺らすことで、可視化され、環境と図案がメディア中心に一体となったと言える。印刷物が揺れ動くことで、図案を見ている感覚と紙の繊細な動き、風が流れる空間の三つの要素を同時に鑑賞する体験が生まれる。《Graphic Surface》よりも動的にその場の環境と融合することができた。分離されていた環境と情報が一体となることで、環境の影響と印刷表現の中心へと持ち込むことが可能になったと考える。 2-4 記号性と即物性を同時に鑑賞している実感を作り出す
《unidentified》を鑑賞していると図像が持つ記号性とメディアの奥行きや環境の持つ即物性を同時に鑑賞しているような体験が起きる。この二つの性質を同時に扱うことのできる印刷手法について考えることで、よりその場に存在するべき印刷物を作り出すことができるのではないだろうか。新たな印刷手法を開発する上で、従来の印刷物から概念を拡張し、捉え直す必要がある。そのため、印刷を次のように定義する。 A:設計した図案を空間、物体に対して、一定時間以上保持することができる
B:定められた手順を踏むことで再現、生産することができる
C:二階調以上の色を制御することができ、図案を設計することができる
上記の定義を踏まえた上で、メディアや環境の固有な性質を利用した印刷手法の開発を試みる。
《Object _Water》は、水が重力によって静止する性質を利用した試みである。ある透明度に白濁した液体と段差のついた器によって階調を再現する。本作では、五階調に設計した図案を元に、階調ごとで深さを変えた器を制作した。深ければ白く、浅ければ黒くなるという仕組みである。器に白濁した液体を流し込むと、器の深度によって色調が現れ、設計した図案が再現される。描かれた図案には、記号として描かれた奥行きが見てとれる。一方で、ここでの色調は、器の深さによって生まれており、即物的な意味においても奥行きが存在し、記号性と即物性を同時に鑑賞することができる。また、図案の中で最背面として描かれている部分と、実際の器の最深部は必ずしも一致しないため、どちらの遠近感を見ているのか交錯するような体感が生まれることになり、それぞれの世界のルールが絡み合った関係性を結ぶことができた。この手法は、重力を利用するため、傾けてしまえば図案は乱れてしまう緊張感が伴うということも実空間で鑑賞する実感を引き立てている。 《Object _Light》では、展示環境にある窓から差し込む自然光を用いて図案の再現を試みた。印刷物はインクを用いて反射光の制御をしているが、ここでは、インクで透過光を制御している。室内へ流れ込む光の量をインクで遮ることで階調を生み出す。素材には、光を透過するトレーシングペーパーとそれに直接印刷ができるレーザープリンターを用いた。完全に遮光できた場所をK100%、遮光処理をしていない場所をK0%として図案を作成し印刷を行った。図案を印刷し、窓に貼り付けて、余計な光が入らないように周辺にも遮光処理をすると、設計した図案を空間に再現することができる。本作では、図案の中に光が描かれており、鑑賞者は記号としての光と影を認識する。一方で、室内へ向けて自然光が差し込んでいるため、描かれる記号的な光と降り注ぐ即物的な光を同時に捉えることができる。この構造によって空間と図案に密接な関係の創出している。光と闇を図案の再現に用いることで、従来の印刷における白や黒では再現することのできない輝きや濃密さを生み出し、光に由来する精細な質感を印刷として扱うことが可能となった。それにより、紙やスクリーンにはない細かな肌理を図案の質感に付与することができた。 3 情報とメディアや空間を用いる
ここまで、「印刷物を中心とした空間表現」の可能性と、その表現方法の探求として制作してきた作品群の意図を書いてきた。即物性に着目したメディアの開発によって、"情報・メディア・空間"の関係性を結び直す考え方は、人間の繊細な空間認知能力を活かした新たな表現開発の可能性を切り開くのではないかと考えている。今回のような表現を用いると、情報を単なる記号としての価値で捉えることから、それを支えるメディアの質感、空間のムードへと興味が移行する。それにより、鑑賞者自らが、世界を観察する目で捉え、美しさを発見していくことに繋がっていくと考える。つまり、鑑賞者は、自身の持つ感覚器官を駆使し、繊細に世界と捉えようと試みる。これは、単なる能動的な鑑賞以上に価値がある。デジタルデバイスが台頭する時代に置いて、鑑賞者に与えられる情報は、デバイスの解像度の限界に限定されてしまうことが多くなった。あらゆる出来事が擬似的に再現され、情報として消化されていくことになる。人間に備わる高精細なセンサーを利用し、より深い世界へ直接触れるような表現の探求は、「物に直接触れて、確かめる」という原初的で個人的な体験を与えることができると考えている。本研究はこの先、メディアが大衆へ向けて情報を流通させる方向へ向かった結果として取りこぼされた、精細な感覚に着目し、再びメディアを開発する。それによって人に備わる感覚機能を訓練し、より精細な情報伝達の実現を目指していきたいと考えている。