狩谷棭斎
狩谷棭斎、名は望之《ぼうし》、字《あざな》は卿雲《けいうん》、棭斎はその号である。通称を三右衛門《さんえもん》という。家は湯島《ゆしま》にあった。今の一丁目である。棭斎の家は津軽の用達《ようたし》で、津軽屋と称し、棭斎は津軽家の禄千石を食《は》み、目見諸士《めみえしょし》の末席《ばっせき》に列せられていた。先祖は参河国《みかわのくに》苅屋《かりや》の人で、江戸に移ってから狩谷氏を称した。しかし棭斎は狩谷|保古《ほうこ》の代にこの家に養子に来たもので、実父は高橋高敏《たかはしこうびん》、母は佐藤氏である。安永四年の生《うまれ》で、抽斎の母縫《ぬい》と同年であったらしい。果してそうなら、抽斎の生れた時は三十一歳で、迷庵よりは十《とお》少《わか》かったのだろう。抽斎の棭斎に師事したのは二十余歳の時だというから、恐らくは迷庵を喪《うしな》って棭斎に適《ゆ》いたのであろう。迷庵の六十二歳で亡くなった文政九年八月十四日は、抽斎が二十二歳、棭斎が五十二歳になっていた年である。迷庵も棭斎も古書を集めたが、棭斎は古銭をも集めた。漢代《かんだい》の五物《ごぶつ》を蔵して六漢道人《ろっかんどうじん》と号したので、人が一物《いちぶつ》足らぬではないかと詰《なじ》った時、今一つは漢学だと答えたという話がある。抽斎も古書や「古武鑑」を蔵していたばかりでなく、やはり古銭癖《こせんへき》があったそうである。 迷庵と棭斎とは、年歯《ねんし》を以《もっ》て論ずれば、彼が兄、此《これ》が弟であるが、考証学の学統から見ると、棭斎が先で、迷庵が後《のち》である。そしてこの二人の通称がどちらも三右衛門であった。世にこれを文政の六右衛門と称する。抽斎は六右衛門のどちらにも師事したわけである。(渋江抽斎 その十三)