具体的にパースが何をやってデカルトを克服しようとしたのかがいまいちわからん
具体的にパースが何をやってデカルトを克服しようとしたのかがいまいちわからんcFQ2f7LRuLYP.icon ヒントになりそうなワード
①デカルトの認識論的出発点をなしている「普遍的懐疑・方法的懐疑」という発想が、そもそも無意味かつ不可能な企てであることを示す。 それはどのようにして示されるのか?cFQ2f7LRuLYP.icon
以下の論文ふたつで示されたという
人間の精神には、内観によって透視されるような透明な意識の内面などないのではないか。これは私たちの意識や思考が記号に媒介され、物質的な側面を消去できず、外界への指示的関係をもたざるをえないということであり、いいかえれば外界と隔絶したコギトとしての「私」などはない、ということである。しかし、コギトとしての私がないということは、単に精神という実体が心のうちに見出せないということではない。むしろ、そうした実体の把握に至るためにデカルトが工夫した、「普遍的懐疑」という哲学的探究の方法が、本当は実行が不可能であり無効だということである。 伊藤邦武. プラグマティズム入門 (ちくま新書) (p.40). 筑摩書房. Kindle 版.
ここでの「記号」とは「言葉」も含んでいるのだろうかcFQ2f7LRuLYP.icon
②デカルトにおいては、懐疑の末に「明晰・判明な観念こそ真理である」という原理が立てられた。しかし、懐疑が無意味であるとすれば、「観念の明晰性」ということについて、別の基準・格率が立てられる必要がある。われわれのもつ信念や観念は、どのようにして明晰化できるのか。彼の「方法としてのプラグマティズム」はまさにこの問題への回答である。 ③この基準のもとでは、観念が明晰であることは、そのまま真理であることを意味しはしない。そこで、真理とは何かということをもう一度定義しなおす必要がある。
伊藤邦武. プラグマティズム入門 (ちくま新書) (p.37). 筑摩書房. Kindle 版.