小さな声で、円が言うた
夕方帰宅すると、いつも玄関で出迎えてくれるはずの円の姿がなかった。
僕は鞄を投げ出して円の名前を呼んだ。
ダイニングの机には、ほとんど手つかずの昼食が残っとった。
寝室のドアを開けると、ぐったりしとる円の姿が見えた。
僕は駆け寄って、円の顔をのぞき込んだ。
絶対失いたくない。僕の円。僕の宝物。一番大切な人。 「おかえり……」
円は弱弱しく笑うて、僕を見つめ返した。
「しんどいんか?」
僕が訊ねると、円は小さくうなずいた。
「少し、気分が悪うて」
ほう言う円の白い顔に手を当てると、血が通ってないみたいに冷たかった。
「病院行くか?」
僕が言うと、円は首を横に振った。
円は病院が嫌いやった。つらい思いをしたことを思いだすけん嫌やと言うとった。
「一晩休んだらようなるけん」
円がほう言い張るもんやけん、僕は明日ようなってなかったら病院へ行くと約束させて、円を寝かせた。
次の日の朝、円はケロッとしていつもみたいにおにぎりを握ってくれた。
でも、それから円はときどき気分が悪いと言うて食事を残したり、ひどいときには戻すようになった。
僕が心配して病院へ連れていこうとすると、絶対に行かんと言うて泣いた。
その日の夜、円は初めて僕の求めを拒絶した。
謝る僕の手をつかんで、円は慌てたように首を横に振った。
「違うんよ、遥」
円は何か言いかけて、ためらって口をつぐんだ。
僕は円の言葉の続きを待った。
円はつかんどった僕の手を、自分のお腹にあてた。
わからんか、と言いたげな目で、円は僕を見つめた。
「遥と僕の赤ちゃん、ここにおる」
小さな声で、円が言うた。
円は笑とった。今まで見たことないくらい幸せそうな笑顔やった。 僕は円を優しく抱きしめた。ほうすることしかできんかった。