呼んだだけ
円、と僕は東雲さんの名前を呼んだ。円。これからはほう呼んでもええかな。
円は僕の手を握り返して、うん、とうなずいた。
退院の日、僕が抱き上げて車の助手席に乗せようとすると、円は怖がって僕の首に巻きつけた腕をなかなか離そうとせんかった。
気をつけるから、大丈夫やと言い聞かせて車に乗せたあとも、大きな交差点に差し掛かるたびに怖い、怖いと悲鳴を上げた。
円の部屋は、いつ帰ってきてもいいように片付けておいた。
冷蔵庫の中身を整理したり、必要なところに手すりをつけたり、車椅子が通りやすいように家具の配置を変えたりした。
必要なものはなんでも円の手の届くところに置いた。包丁だけは、絶対に円の手の届かんところに隠した。
円が僕の作ったチャーハンを食べたいと言うたけん、僕は腕によりをかけて作った。僕の一番得意な料理、パラパラのチャーハン。 円は喜んで食べた。デザートのプリンまで完食した。
病院食は口に合わんかったらしくて、いつも残しとった。これからは僕が三食作るけんな、しっかり食べて、元気になろな。
夕食の後で、円を風呂に入れた。
傷だらけになった円を抱えたとき、今日一日ガマンしとった涙があふれてしもた。
円は黙って僕の頭をなでてくれた。一番つらいんは円やのに。
円は嬉しそうに、甘えた声で何度も僕の名前を呼んだ。 遥。なんでもない。呼んだだけ。
ほう言うて円は笑うた。
はしゃぎ疲れた円は、子供みたいに僕の手を両手で握りしめて眠った。