財政のしくみがわかる本
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発行年月 : 2012年7月
出版社 : 岩波書店
中高生向けののジュニア新書という形式で、入門的な内容なので何もわかっていない大人の自分が読んでも理解できる内容で、単純に世の中のしくみがわかったような気になれてよかった。
税と社会保障と社会のあり方について真面目に考える下地が若い世代から広く共有されていたらどうなってたのかなというのは、Covid-19の影響下でとにかく補償が求められる今だから余計に考えさせられる。
一九二〇年代、世界全体が不況になりました。日本でもイギリスでも、郵便局のほうが安全だからと、銀行から郵便局に預金が流れていきました。すると、日本でもイギリスでも、銀行業界が「郵便貯金の金利を引き下げろ」という要求をしました。
労働者の力が強かったイギリスでは、その要求は門前払いされました。ところが、日本では銀行業界の言いなりになって、郵便貯金の金利を引き下げました。時代が移って一九八〇年代、また郵便貯金にお金が集まってくると、銀行業界は「郵便局を民営化しろ」と言ってきました。そうするとまたも銀行業界の言いなりになって、日本は民営化するのです。
一九二〇年代も八〇年代も、日本の政府は「民主主義はどうなるのか」ということは考えませんでした。最近では「地方債にしても市場の統制が重要なのだ。市場に統制してもらったほうがいい」と、ものごとの原点をとりちがえています。民主主義が崩れてしまうことが目に見えているのにです。
市場では、人々は購買力に応じて発言力をもっているので、金持ちの言いなりになることになるからです。「それは民主主義ではない」と言わなくてはいけないのに、マスコミも国民もいっせいに、「市場の声に逆らわないことがいいことだ」と言っていることに、私は民主主義の危機を感じています。 (honto, 17%)
税の根拠は、利益説に立っても、負担は能力に応じてするのが公平だという考え方でも、おかしくはありません。社会を形成することが利益になるので、社会の構成員はそれぞれ経済的な能力に応じて負担するのが公平だという論理も成り立つからです。
そこで考えておかなくてはいけないのは、社会を形成することに利益があるから税を負担するという利益説は、功利主義的な利益説ではないということです。つまり、利益説でいう利益は社会を形成するという利益なので、一対一という功利主義的利益ではありません。もしもそれが一対一の利益を意味するとすれば、税をかける根拠とはなりません。そこで、公共サービスの利益全体が税の負担全体と対応しているという等価原則となるわけです。 (35%)
消費税を増税しようとしている日本は、どういう社会をめざしているのでしょうか。フランスやドイツのように、国民がおたがいに助けあって生きていく社会をめざしているとは考えられません。もちろん、スウェーデンのようにおたがいに助けあい、しかも政府は国民の標準生活を保障する社会をめざすとも考えられません。
日本はアメリカのような、国民が自分の責任で生きていく社会をめざしているようです。そうだとすれば、消費税の増税ではなく、所得税の増税をめざすべきです。アメリカでは消費税はなく、所得税のウェイトが高いからです。
ところが、日本はヨーロッパ諸国のように消費税のウェイトを高めようとしています。しかし、ドイツもフランスもスウェーデンも、貧しい人々を支える社会保障は充実しているのです。それだからこそ、貧しい人々にも負担がになえるのです。
貧しい人々の生活を国民がおたがいに支えあうのでもないのに、貧しい人々にも高い税負担を求めることはできません。日本はどのような社会をめざすのかを明らかにしたうえで、税金のあり方を考えていかないと、社会は混乱するばかりです。もちろん、日本の社会のめざす方向を決め、税金のあり方を決めるのは、国民だということも忘れてはなりません。 (50%)
いまの日本の政府のように、福祉でも医療でも教育でも聖域なく斬りこんで、小さくするのがいいのだと決めるのは、民主主義の原則からは大きく逸脱しているといわざるをえません。何を財政でやり、何を市場にまかせるのか、決めるのは私たちなのです。 (64%)
地方自治体が、国が決めた全国一律の公共サービスに合わせる形で公共サービスを提供するとなると、それぞれの地域で多様に暮らす人たちが、生活を画一的な公共サービスにむりやり合わせなければならなくなるからです。そうなると、日々の生活にゆとりも豊かさも実感できなくなります。
やせた人・太った人と、いろんな体型の人がいるにもかかわらず、国が全国一律に同じ洋服の型紙を配って、「この型紙に合わせて洋服をつくりなさい。やせている人は太りなさい。太っている人はやせなさい」と強制しているようなものです。
それぞれの地域社会で営まれる多様な生活に合わせて、オーダーメードで注文服をつくるように公共サービスをつくって、それでは足りないところを上の政府が補完していくというのが、補完性の原理なのです。
日本は一九八〇年代から世界でも豊かな国に仲間入りしたといわれながら、私たちがあまりゆとりも豊かさも実感できないのは、公共サービスが地域の生活実態に合っていないからだといわれています。 (77%)
家族の機能が急速に縮小し、とくに単身者を多くかかえる日本では、労働市場と家族の二つが格差を規定しているのです。どちらも、わずかなトラブルがおきても、これまで生活を支えてくれた家族も、家族のように機能した企業も、支えてくれません。家族と企業という、生活を支えてきた二つのセーフティネットが完全に外された状況になっているのです。
それにかわって国民の生活を守る使命のある政府が、その使命を果たそうとしていないのです。所得再分配も、セーフティネットも、先ほどお話しした参加条件の整備もしていないのです。日本の現状は、格差社会に陥って、社会のさまざまなところに亀裂が走っています。そうした社会の亀裂は、かならず抵抗運動や逸脱行動をともないますが、日本では組織的な抵抗運動はおこらず、逸脱行動がおこっているのです。そのため、毎日のように理解できない社会的な病理現象が発生するのです。 (90%)
私たちが考えなければならないことは、これまでとちがって、政府が再分配をやめて、すべて市場にまかせればいいという方向を選ぶのか、そうでない方向を選ぶのかということです。
これまでとはちがって、再分配をやめて政府を小さくすることの欠点は、人々の生活を守ることを社会、つまり伝統的な家族やコミュニティにゆだねようとしている点にあります。イギリスの元首相サッチャーのことばを借りれば、「ビクトリアにもどれ」と言ったときは、家族がおたがいに助けあい、教会を中心に地域のコミュニティがおたがいに助けあっていた時代にもどせばいいと考えているのです。
日本でも「日本型福祉社会」といって、伝統的な家族制度や伝統的な地域社会がおたがいに生活を助けあっていたので、日本的な福祉社会にもどせば、年金や医療保険などの所得再分配は少なくてもすむはずだということが、くりかえし主張されてきました。
安倍政権の「美しい国」というのも、日本の伝統的な家族や伝統的な地域社会の復活をいい、しかも伝統的な家族や伝統的なコミュニティが無理な場合には、最後には伝統的な国家、つまり強い防衛力とか強い秩序維持政策が出ていくという主張になってくるはずです。
そうした伝統主義と市場主義の組みあわせは、市場が小さかったときには伝統的な家族やコミュニティの機能が大きく残っているので、小さな政府でも大きな共同体、伝統的な共同体が残っているので機能します。しかし、現在のように、労働市場にみんなが働きにいくという時代になってくると、共同体は小さくなり、家族の機能は小さくなってしまいます。そこを伝統主義にゆだねようとすると、結局のところ、伝統としての国家の暴力機構、強制力を強化する道しかなくなって、産業構造を大きく知識社会の方向に転換していくことすらも不可能にしかねないことになります。