翻訳語成立事情
https://gyazo.com/a5721d0f68c81490f1f505f39b4f9c17
発行年月 : 1982年4月
出版社 : 岩波書店
ふだん自分たちが使っていて、しかも社会の成り立ちや構成の根本に大きく関わるような言葉(それこそ「社会」でさえ)がどれだけ外から輸入してしてきたものであり、その概念を輸入するにあたって当時の知識人がどれだけ慎重に言葉を選ぼうと苦心していたのかがわかるし、そうした海外からの概念が本当に自分たちの社会の血肉になっているのかどうか、現代になっても心もとないという事実に厳しい気持ちになってきてしまう。
また、その上で公の場で言葉を発する人間が、適当な言葉の発し方を重ねていくことで、後の世代にわたって言葉がどんどん貧しくなっていってしまう責任の重さについても。
当時、「国」とか「藩」などということばはあった。が、 society は、窮極的には、この(2)でも述べられていいるように、個人 individual を単位とする人間関係である。狭い意味でも広い意味でもそうである。「国」や「藩」では、人々は身分として存在しているのであって、個人としてではない。 (p6)
だが、福沢の思考方法は、 society の概念を初めに置いて、そもそも近代社会とは、などというように、そこから天降ってくるような分析、批評ではなかった。いわゆる演繹的な分析、批評ではない。その逆である。日本人が日常ふつうのことば感覚を通して理解できる概念が、その根拠である。そこから出発し、ことば使いの構成の工夫を通じて、意味の矛盾を引出し、その矛盾によって新しい意味を造りだしていく。それは、単にことばの上だけでの工夫ではなく、現実に生きている意味の重みを負ったことばを操作し、組み立てていく。その彼方に、 society にも匹敵するよな「交際」の意味の展望を切り開こうとするのである。 (p12)
私たちの国は、一貫して翻訳受け入れ国であった。翻訳されるべき先進文明のことばには、必ず「穏なる日本語」で表現できない意味がある。重要なことばほどそうである。福沢がここで言っているような、完全に「申分なき訳字」は、「穏なる日本語」の中には、実はない。そこで、そのとらえ難い意味を、「四角張った文字」じたいにまかせるのである。 (p36)
福沢の思考は、ここで行き詰ったのである。彼の思考の彼方には、ヨーロッパ文明における、 indivudual 尊重は、ゲルマンの individualism に由来するというギゾーの考えがあった。福沢は、これを参考としつつも、「交際」や「人」などという日本語で追求してきたのだが、しょせん、それは無理であった。 individual の思想と日本の現実とは、あまりに遠いのである。
この思考の行き詰まりのところで、「独一個人」という翻訳語が登場した。それは、あたかも思考の困難を解決するかのごとく現れている。この未知のことばに、それからは預ける。前述の「カセット効果」に期待するのである。ことばは正しい、誤っているのは現実の方だ、というところで、一見、問題は解決したかのごとき形をとる。それは、以後今日に至るまで、私たちの国の知識人たちの思考方法を支配してきた翻訳的演繹論理の思考であった。 (p40)
以後、 individual や society という文字を見れば、その意味についてあまり迷うことなく、ほとんど機械的に「一個人」「社会」という翻訳語をあてて解決したとする時代がやってくるのである。時代は急激に動いていた。一つ一つのことばについて迷い、立ち止まっている余裕が乏しくなってきたのである。 (p42)
ことばがこうして、いいとか、悪いとか価値づけされて受けとめられている。ということは、ことばが、人間の道具として使いこなされているのではなく、逆に、何らかの意味で、ことばが人間を支配している、ということを示している、と考える。「近代」が「混乱」であり「地獄」であると思い込む者は、「近代」と名のつくものを、考えるよりも前に、まず憎むであろう。他方「非常に偉い」ように感じている者は、冷静に見てみるよりも、まずあこがれるであろう。
人がことばを、憎んだり、あこがれたりしているとき、人はそのことばを機能として使いこなしてはいない。逆に。そのことばによって、人は支配され、人がことばに使われている。価値づけしてみている分だけ、人はことばに引きまわされている。 (p46)
意味は、形を共有する人々の間につくられていくのである。 (p84)
このような考察から、レヴィ・ストロースは、およそ文字というものについて考え、それは権力的支配の道具である、と言う。(...) その文字は、意味によるよりも、まずその「くねくねとした」不可解な形によって人々を惹きつけ、貴重であるとされ、独占されたのである。 (p85)
つまり、翻訳に適した漢字中心の表現は、他方、学問・思想などの分野で、翻訳に適さないやまとことば伝来の日常語表現を置き去りにし、切り捨ててきた、ということである。そのために、たとえば日本の哲学は、私たちの日常に生きている意味を置き去りにし、切り捨ててきた。日常ふつうに生きている意味から、哲学などの学問を組み立ててこなかった、ということである。それは、まさしく、今から350年ほど前、ラテン語でなくあえてフランス語で『方法序説』を書いたデカルトの試みの基本的態度と相反するのであり、さらに言えば、ソクラテス以来の西欧哲学の基本的態度と相反するのである。 (p124)
「自然」は、 nature の翻訳語とされることによって、直ちに nature の意味がそこに乗り移ってきたわけではない。「自然」は、翻訳語とされることによって、まず nature と同じような語法で使われるようになった。論理学の用語で言えば、内包的な意味はもとのままで、外延的にあたかも nature ということばのように扱われた。対象世界を語ることばのように扱われた。これは意味の上からは矛盾である。そしてこの矛盾が、新しい意味を求め、「自然」ということばの使用者は、矛盾を埋めるような意味を求めていく。こうして、あえて、意識的に「自然」であろうとし、「自他」「融解」する。「自然」の意味はこうして回復され、同時に新しい意味を生み出しているのである。 (p148)
福沢は、とくに初期の著述の中で、 right の説明を繰り返している。同書中にも、“譬えば訳書中に往々自由(原語「リベルチ」)通義(原語「ライト」)の字を用ひたること多しといえども、実は是等の訳字を以て原意を尽すに足らず。”と言う。同じような、翻訳語への警戒のことばは、他の同時代の知識人によっても、時には語られている。しかし、福沢の、思想の道具としてのことばに対する感覚の鋭さは群を抜いていた。
まもなく翻訳語は、「訳字をもって原意を尽すに足」る、とされる時代に入っていく。 right を KENRI と訳したとき、この KENRI ということばじたいが、その中に right と等しい意味を持つようになる、として扱われるようになる。
もちろん、改めてこの「訳字」は「原意を尽すに足」りるのか、と問われれば、否定する人も少なくないだろう。だが、ことばが現実に使用されていく過程は、使用者の意識を超えているのである。それは、翻訳語を含むことばのこうぞうが私たちに働きかけ、意識を左右しているのであって、「訳字」というものは「原意を尽すに足」りるはずであるかのごとく働くのである。 (p154~155)
「自由」ということばは、正しく理解されればいい意味であり、「はき違え」て理解されれば悪い意味になる、というように、私たちは漠然と考えがちであるが、そうではない。と私は考える。問題は、理解の仕方にあるのではない。母国語の中に深い根をおろして歴史を担っていることばは、「はき違え」ようがないのである。
「はき違え」られている「自由」は、翻訳語「自由」である。
近代以後の私たちの「自由」ということばにも、英語で言えば freedom や liberty のような西欧語の翻訳語として意味と、伝来の漢字のことば「自由」の意味とが混在しているのである。 (p177)