民主主義を信じる
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発行年月 : 2021年2月
出版社 : 青土社
菅政権が任命を拒否した日本学術会議の会員候補6人の内の1人である宇野重規の本。何かしら読んでみたいなと思っていたタイミングで単行本の新しいものが出版されていて、装丁も好みだったので中身も見ずに買って読んでみたら、東京新聞の連載をまとめたものということで、ひとつひとつのテキストの中でそこまで突っ込んだ話まではされず、だいぶライトな内容だった。中学生~高校生くらいが読むとちょうどよさそうなのかなと思いつつ、それでもハッとさせられるポイントもあって、別の著作につなげていきたい。
英文学者で洒脱な随筆を書いた深瀬基寛はかつて「政治と腹いた」という文章の中で英語のプリンシプルという言葉について論じている。この言葉には原理だけではなく、主義と節操という意味があるという深瀬は、その上でこの三つが不可分に結びついていたことが英国政治の強みだったという。
なるほど深瀬のいうように、およそ政治における「主義」とは抽象的なものではないだろう。それは一人ひとりの人生の「原理」に立脚するもので、だからこそ「政治家の節操」につながる。この三つが密接に結びつき、一国の政治社会の「コモンセンス(常識・共通感覚)」となって初めて、政党政治も機能するという言葉には重みがある。
(...) 主義と原理と節操が結びついているからこそ、政権と対立して野党になっても崩壊を免れると深瀬は指摘する。対立はむしろ前進と創造にもつながるという。いささか昨今の政治状況(日本だけではないが)を見ていると、高尚過ぎる議論とも言えるが、簡単に離合集散を繰り返す政治家たちを見ていると、少しは「主義と原理と節操の一体性」という言葉を投げかけてみたくもなる。 (p69~69, "政治のプリンシプル")
しかし、このような若者の傾向を、単に「若者の保守化」として総括すべきなのだろうか。もう少し慎重であるべきだと思われる。実際、NPOの活動や「ソーシャルビジネス(社会的起業)」をはじめ、社会的な活動に興味を持ち、参加へのフットワークが軽い人が多いのもこの世代である。「社会を変える」ことに無関心とは言えない若者たちを「保守化」の一言で片づけてよいとは思わない。
(...) 学業や就職活動など、とかく目の前の自分の諸問題に追われる若者たちではあるが、彼ら、彼女らもその先を見ていないわけではない。ただ、今のままの政治のあり方の下では、自分と社会の未来図を重ね合わせて考えることは難しいようだ。見えない将来に向けて、若者たちは何とか生きていくことに精いっぱいである。社会の不安定化は何としても避けたい。その意味では、社会は「ともかく今のままでいい」というのは、ある種の実感なのだろう。 (p74~75, "「若者の保守化」に思う")
このように考えるべきだろう。多くの処刑者を出してきた欧州では、これを抑制するために、まずは個人間での私刑を否定して、死刑を国家の権限として一本化した。やがて民主化が進むにつれ、個人の権利を守るために作られた国家が、個人を殺す権力を持つのはおかしいとする意見も生まれてくる。私人はもちろん、国家もまた死刑に対する正統な権力を持たないという考えの広がりは、民主主義発展の指標でもあった。
(...) 日本はどうだろうか。歴史を振り返ってみて、早くから私刑を否定して、国家に死刑の権限を集中してきたという意味では、欧州の歴史に近い。今日なお、市民間の正当な裁判によって死刑を行いたいという意見はほとんど見られないだろう。死刑は国家の権限であるという発想が一般的である。
その意味で、今あらためて考えるべきなのは、はたして国家は死刑を行う正統な権限を持っているか、という問いである。筆者自身は、民主主義国家において権力が個人を殺す正統な権限を持つとは考えていない。被害者の権利をより重視すべきだとの声があり、それ自体は正しいと判断するが、そのことは国家の死刑への権利を正当化するとは考えない。報復という私刑的発想はまして評価できない。 (p97~98, "死刑の是非を考える")
近年、「解散は首相の専権事項」とする議論が横行し、与党がひたすら勝利のタイミングをうかがい、「勝つことだけが大義」という状況が加速している。恣意的な「真夏の狂宴」のために、膨大な国民の血税と労力が投入されるかと思うとむなしさが募る。
このような状況が続けば、「そもそも、なぜ選挙をするのか」という意義は、完全に空洞化するだろう。そのことが政治に対する不信とニヒリズムをさらに募らせ、政治の地盤沈下を加速させるばかりである。いいかげん、政治家たちは自分たちの足元を掘り崩す愚に気付くべきではなかろうか。
いや、それでいいのだという声も聞こえてくる。平成政治の本質は、低投票率の下、けっして盤石な支持基盤を持つわけではない自民党・公明党の連立与党が綿密な選挙協力によって、まとまらない野党を尻目に、衆院小選挙区との参院の一人区で勝ち続けることにあった。この構図からすれば、世の中が政治にしらけ、傍観者的になることは、むしろ望ましいことかもしれない。 (p130~131, "むなしい「真夏の狂宴」")
災害などの危機にあたって、その危機を完全に管理することはできないとしても、「追い抜かれない」ことが大事だという。言い換えると、初動において、なるべく「大風呂敷を広げる」ことが求められる。迅速に、可能な限りの対応を取るべきで、その決断が重要である。なるほど、多くの場合、そこまでの対応は不要だったという結果になるだろう。とはいえ、そのような対応は、来るべき大災害に対する良い訓練の場になる。
逆に、初期の段階で小出しの対応をすると、危機が深刻だった場合、取り返しがつかないことになる。いったん後れを取ると、対応は後手後手になり、災害に「追いつく」ことができないからだ。また危機には「運命」があり、同じ時期にほかの問題があると、そちらに関心が移りやすい。えてして対応が遅れるのは、そのようなときだという。
危機に備えるためには、地理の勉強が必要という話も印象に残った。過去の歴史から学ぶというのは想像がつくが、「地図を読め」という指摘は面白いと思った。危機が起きたとき、その規模感や距離感が直感的に把握できることが大事であるという趣旨であろう。 (p153~154, "危機に備える哲学")
国家とその時々の政権を区別することも、「線を引く」ことの一つである。権力の担い手は時とともに替わっていく。時の政権が過ちを犯すこともあるだろう。それを厳しくチェックし、批判することは、むしろ長期的には国家や社会の健全なあり方に寄与する。政権を批判することは、国家に敵対することではない。 (p175, "線を引くという知恵")