欲望の経済を終わらせる
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発行年月 : 2020年6月
出版社 : 集英社インターナショナル
田中角栄の時代から始まる、日本で新自由主義的価値観が浸透していく過程についてとても分かりやすく理解できた。
特に日本における勤労と倹約という勤勉さを美徳として評価する風土こそが、自己責任社会を強化してきたというのは、言われてみれば確かにという話で納得してしまった。
しかし80年代以降ここまでアメリカに内政干渉をされまくってズタボロにされてもなお、年次改革要望書だの米軍基地だのを受け入れ続け、アメリカに対してはあんまり反発がないのってひどい奴隷根性だなと思わざるを得ず、軍事的にも自立しなければいけないみたいな話が出てくるのも仕方がない気もしてしまう。
ただそれ以前に、アメリカからの圧力に乗じて、自分たちの利益のために動く経済界に誘導されるがまま、新自由主義へと舵を切り続けざるを得なかった日本の政治家たちのそもそもの支持基盤ってどうなのよとも思う。
さらに、増税を許容できるほどの政府に対する信頼がなくなっていく中で、選挙の際に減税のような一見耳ざわりの良い甘言だったり、他国に対する排外的な姿勢で問題から目を逸らすような政策しか打ち出すことが出来なくなっていくのは相当きつくてめまいがする。
自分はこれから将来にかけてそんなに稼げる見通しもないので、著者が提案するようなベーシックサービスのようなぶ厚い保障があってほしいと思うし、それが確実にあるなら増税があっても構わないと思う立場だけど、それが日本の社会のなかで広く共有されるにはもう手遅れなんじゃないかという気もしている。
日本社会に新自由主義的価値観が根をはっていった背景
民営化であれ、財政支出の削減であれ、ようは政府が自らの非効率性をみとめ、みずからをきりきざみ、すて身で有権者の関心をひこうとする、いわば「敗北主義の政治」である。
同時に、不正やムダづかいの犯人を特定し、それを袋だたきにする政治が合理性を持つ。所得減にくるしみ、将来不安を強めつつあった都市住民の不満ときびしい財政事情が重なりあうことで、「利益の分配」から「痛みの分配」へと大きく政治課題はかわっていった。そして、この激動の時代にあって、政府、経済界、都市無党派層の利害の均衡点としてフル回転することとなったのが新自由主義イデオロギーだったのである。 (p107~108)
僕たちはなにを経験したのか。
規制緩和、行政改革、自由化、小さな政府を追求する新自由主義は、痛みをだれに押しつけるのかをあらそい、だれが不正をおこない、だれが不当な利益を得ているのかを血眼になって探すような政治を生んだのではないだろうか。
このやりかたは、当時の政権への支持を高めることには貢献したが、人々の疑心暗鬼に火をつけ、他者へのぬぐいがたい不信感を植えつけたのではないだろうか。 (p117)
僕たちには「生きる」「くらす」という共通の欲求、別言すれば必要(ニーズ)がある。だからこそ、メンバーどうしで共通のニーズを満たさねばならず、そのために家族や村落のような共同体がもとめられ、ともに生きるためのルールが形成され、不平等もおさえられた。こうした「秩序形成のメカニズム」を抜きに経済をうごかせば、当然のことながら社会を不安定化させずにはおかない。この点にこそ、新自由主義の決定的なあやまりが存在しているのである。 (p125~126)
江戸時代から、日本では「勤労」と「倹約」の美徳が重んじられてきた。そして現代の日本社会でも、じぶんであはたらき、倹約して貯蓄をし、そのお金で教育や医療、老後の生活をまかなう。こうした「自己責任」の発想がしぶとく居座り続けている。 (p134)
大きな政府への道がふうじられるなか、勤労と倹約を美徳とする国民がすがったのは、まじめにはたらきさえすれば所得が増え、将来不安がなくなると思わせてくれる別の「ロジック」だった。政府をむだづかいの象徴にまつりあげ、むだをなくせば経済は成長し、人びとはゆたかになれる、そんなささやきに人びとが酔いしれたのももっともなことだったのである。
読者の皆さんもお気づきだろう。新自由主義が悪いのではない。新自由主義を受け入れるような社会的な土壌、勤労国家という自己責任の社会が新自由主義を呼び込んだのである。 (p143)
日本の生活保障水準は国際的に見て十分だとはいえない。とくに、この20年間、世帯収入や家計貯蓄率が低下の一途をたどってきたのだから、生活保障機能の貧弱さはなおさらきわだっている。この状況のなかで「財政再建のための増税です」とうったえれば、政府を信用しない人たちは「増税の前にムダ遣いをなくせ」と反論するだろう。
この政府不信がてことなって、支出削減をもとめる財政再建論者が小さな政府をもとめる新自由主義と手をむすんだ。そして批判が自己目的化し、債務を積みあげてきた政府の無責任さを批判してきた左派もまた、気づかぬうちにこの切りさげ競争に巻き込まれていった。 (p172)
もし、低所得層である自分は貧困層ではない、社会的な救済の対象ではない。その意味でギリギリ「中流」に踏みとどまっている。そう信じたい人たちが少なからずいるとすれば、貧困撲滅、反貧困ということばは、彼らにとってはまったくの他人ごとでしかないだろう。ちなみに先の『国際社会調査プログラム』を見てみると、自分が「中の下」に属すると答えた日本人の割合は調査対象の38ヵ国のなかで1位である。
中流幻想――なんとか中流でとどまっていると信じたい。そんな彼らに、弱者の自由や、弱者への優しさをうったえればどうなるだろう。繰りかえされる生活保護バッシングに象徴されるように、はたらかずとも生きていける「特権的弱者」への反発、疑心暗鬼を生んでしまうだけではないだろうか。 (p189)
リベラルにかけているビジョン
多様な価値や市民の政治参加はもちろん重要だが、それは民主主義の安定とイコールではない。「リベラル」は社会的な弱者に焦点をあわせる。彼らを救済すれば、すべての人たちが幸せになれる、それは道徳的な正義だとうったえる。
だが、危機の時代には、自己責任をはたすことがむずかしくなり、人びとは「転落の恐怖」におびえる。「貧困層の救済 = 無責任の尻ぬぐい」ととらえられかねない状況、いわば、社会的な分断が浮かび上がる状況のなかで、「リベラル」はその分断を結果的に加速させる。
彼らに欠けているのはなにか。多様な価値、個人の主体性を追求することは重要である。だが、中間層の衰退、政党政治の機能不全、社会的なつながりのゆるみという時代状況を見とおしながら、ナショナリズムや暴力とはことなるかたちで社会全体の連帯感をどう形成するか、という視点が弱い。 (p197~198)
消費税廃止論とMMTの非現実さ
消費税を10%引きさげるとすれば、28長円の財源不足が生じる。令和2年度の国債発行予定額が33兆円であるから、これが61兆円にはねあがることとなる。為替市場、国債市場がこれにどのような反応をしめすか。おそらくは円、国債の深刻な下落が起きるだろう。
これをもし仮に富裕層への課税でうめるとすれば、1237万円超の所得税を50%引きあげ、法人税をさらに40%ほど引きあげる計算となる。これらの大幅な税率引きあげが経済にあたえる影響についても真剣に考えなければならない。 (p200)
「現代貨幣理論(Modern Money Theory)」によると、いくら通貨を発行しても財政は破たんしないという。しかし、現実にこの規模の国債発行がおこなわれれば、為替や物価には大きな影響をあたえずにはおかない。市場は理屈ではなく、心情でうごくからだ。
「現代貨幣理論」あるいはれいわ新選組は、そのときに増税で応じればよいという。
しかし、こうした無理な財政支出が2%をこえて深刻なインフレを起こす可能性は十分にある。そのとき、将来世代が増税に応じる保証はないし、応じたとしても、彼らは僕たちの散財によって、インフレと増税を押し付けられることとなる。財政法では「その年度の支出はその年度の収入でまかなう」ということが原則とされている。それは未来の人たちの意思決定をさまたげるのは「非民主的」だと考えるからである。
財政を限りなく膨張させればインフレはおこせるかもしれない。しかし、そのことによって生じるリスクが大きすぎるからこそ、僕たちは負担と給付のバランスを慎重に議論しながら、よりよい社会をめざしてきたのではなかったか。
人間の歴史を見よ。権利章典であれ、独立宣言であれ、人権宣言であれ、人びとが革命をつうじて手に入れようとしたのは、税をなくすことではない。税の使いみちを自由に決めることであった。民主主義とは、痛みを分かちあってもなお、この社会を生きる仲間たちの幸福を考える地道なプロセスなのであって、思いつきのバラマキをさすのではない。 ( p201~202)
ベーシックインカム(BI)の問題点
単身世帯の生活保護支給額は平均で月額12万円だといわれている。これを全国民に給付する場合、173兆円の予算が必要になる。これを純増税でまかなうとすれば、消費税の税率をいまの10%からさらに62%あげなければならない。
もちろんすでにある社会保障を廃止することで財源はうめられる。現在の現金給付は約63兆円であるからこれをすべて廃止すれば、消費税の上げ幅は39%にまでおさえられる。あるいは医療をのぞくサービス給付をすべて廃止したとしよう。すると34%になる。もし、医療もふくめて全廃すれば、23%の増税ということになる。 (p204)
また、BIは極端な所得再分配、つまり中高所得層から低所得層への所得移転である。なぜなら税をまったくはらっていない人も、巨額の税をはらっている人も、同じ給付となるからだ。このことに国民が合意するとするならば、そもそもなぜ僕たちの社会では、これまで所得格差が広がり、かつ放置され続けてきたのだろうか。
おそらく中高所得層の大部分は、現金はいらないからその分、自分たちの税金を安くすべきだとうったえるだろう。貧困層には、自助努力、自己責任を説きながら……。
ここがポイントである。BIのめざす社会は究極の自己責任社会となりかねない。 ( p205~206)
為政者の発する「自由」ということばについて
もし、多数者の善によってあなたの選択が方向づけられるとすれば、それは箱庭の中の自由にすぎないし、ひどければ強制、自己責任の押し付けとなる。あなたは自由だ――その「善意」がときに人間をつめたく突きはなす。 (p4)
人間にとっての自由とは至高のことばのひとつだ。リベラルを名乗る人たちだけではなく、保守的な人たちであろうと、支配者、権力者であろうと、すべての人たちが自由の価値をかたらずにはいられない。
だが、自由が説得のことばに堕し、人びとの共感や支持を引き出すための手段に貶められたとき、自由ということばは支配の道具になる。耳ざわりのよさとは反対に、僕たちの自由はかならず蹂躙される。 (p244)