数学に魅せられて、科学を見失う
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発行: 2021年4月
出版社: みすず書房
量子力学、超対称性、弦理論…等々、いまの理論物理学の世界でほぼ常識化しているあれこれって、それが証明されれば凄くシンプルに色んな事の説明が通るようになるっていう美しさがあるのはわかるけれども、もう何年も CERN の実験では何も出てきてなかったり、果たして客観的な観測事実が得られる話なんだろうか…もしかして物理学者たちが信奉する自然さ、シンプルさ、数学的な美しさの先に答えは無いのでは…あるいは美しさと呼べるような構造があったとして、人類の理解できる美しさじゃなかったりするのでは…という事に疑問を持った著者が、いろんな研究者にそうした疑問をぶっちゃけながら探った本。
発表した論文で提唱される理論が、現実的に実験結果を得るのには、どうしても長い年月がかかってしまう高エネルギー物理学の現状では、研究者が評価されるかどうかは、その人が研究分野に及ぼす影響度合いによるものになっていて、その度合いが何で測られるかと言えば、その人の発表した論文の件数と引用数に依存している、となると、どうしても同じような研究に人も金も集まるようになり、研究分野の多様性がどんどん失われていってしまう。その結果として残るのが数学的な美しさへの固執って、科学というよりほとんど信仰であって、それってだいぶヤバくないですか。みたいな。
正直具体的な理論の話になるとちんぷんかんぷんだったのだけど、そこが理解できていなくても問題提起されてる部分は読めるし面白かった。と思う。
また、目先の利益にとらわれて全体の舵取りが鈍くなって軌道修正ができなくなるというのは、なんとなく日本のシステム全体が抱える問題点と似てるような気がするけど、世界の科学の世界でそんな事があるのかよ…と読みながら思った。
二〇年間理論物理学に取り組んできたが、私の知人のほとんどは、誰も見たことがないものを研究して身を立てている。彼らはたとえば、この宇宙は「多宇宙」を形成する無限に多くの宇宙のひとつでしかないというような、奇抜な新理論をこしらえている。あるいは、数十種類の新しい素粒子を作り出し、私たちはより高次元の宇宙の投影にすぎないと主張したり、宇宙には遠く離れた場所どうしをつなぐワームホールがたくさんあるなどと説いている。
これらの概念はかまびすしい論争を起こしている一方で、非常に人気があり、推測の域を出ないのに魅力的で、恰好はよいが使い物にはならない。大半は検証が非常に困難で、事実上検証不可能だ。理論的にすら検証不可能なものもある。これらの理論に共通するのは、どれも、自分たちの数学には自然に関する 真実がひとかけらは含まれていると確信している理論家たちに支持されているということだ。自分たちの理論は、大変うまくできているので、正しくないはずがないというわけである。 いかにして新しい自然法則を作り出す―理論を開発する―かは、授業で教えられることではなく、 教科書にも載っていない。その一部は、科学史をひもとけば学ぶことができるが、その大部分は、先輩、 同輩、指導者、論文の指導教官や査読者から会得するほかない。世代から世代へと引き継がれるそれは、 かなりの部分が経験であり、苦労して身に着けた、何がうまくいくかを見極める直観だ。新たに構築されたが、まだ検証されていない理論にどれくらい見込みがあるか判断してくれと求められたとき、物理学者たちは、自然さ、単純さもしくはエレガントさ、そして美しさを手掛かりにする。これらの隠れた基準 (ルール)は、物理学の基礎のなかに遍在している。それらはかけがえのない大事なものだ。同時に、客観的であるべしという科学者の義務に恐ろしく違反している。
これらの隠れたルールは、私たちにはまともな成果をもたらしてこなかった。私たちは新しい自然法則をたくさん提案したが、そのいずれもまだ確証されていない。そして、自分が稼業として携わっている分 時がいつのまにか危機的状況に陥っているのを目の当たりにしながら、私自身も個人的な危機に陥った。 私はもはや、私たちがここ、すなわち、物理学の基盤的領域で行っていることが科学なのかどうか、確信がもてなくなっている。そして、もしもそれが科学でないなら、こんなところで時間を無駄にしている理由などあろうか? (p3~4)