推しって呼べない
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発行 2022/5/29
メモ帳みたいに縦にめくる作りの装丁が面白いな、というのが主な興味で手に取って買った本。
と、ガワから入ったのもあって、タイトルから察せられる中身の本文は、所謂「推し活」に対する自問自答的なエッセイで、あんまり今読みたいものではないんじゃなかろうかと想像していたし、実際そういった感じのものもあったのだが、平岡直子さんのテキストが自分の気分にとてもフィールする話、かつ自分で特に言語化し切れていなかったような内容ですごくよかった。
いつの間にか「推し」という言葉が流通しはじめていた。アイドル界隈から発生したこの用語があっという間に市民権を得たのは、このポジションのちょうどいい言葉が今までなかったのがそれだけ不便だったからだろうと思う。自然は真空を嫌う、という説があるけれど、「推し」という言葉はまさに真空に勢いよく流れ込んできた水のようなものだった。
便利で、そして不思議な言葉だと思う。「推し」という概念は、「推薦する」「押し出す」といった語義のとおり、グループのなかから一人を選び、その一人が活躍できるような応援をする、という文化から派生している。つまり、「総選挙で一票入れる」といった行為に象徴されるような、能動的な関与が前提とされる言葉だ。興味深いのは、そこまで能動的な関与を伴ったファン活動は必ずしも一般的ではなく、この空欄に必要とされていたのはもう少しマイルドなニュアンスの言葉なのに、結果的にはたとえば「贔屓」や「担当」などではなく、より強い働きかけを思わせる(しかも動詞である)「推し」が定着したという点だった。わたしがそこから仄かに感じ取るのは、わたしたちの、露悪的な、あるいは自虐的な気分のあらわれなのだ。
わたしのなかの真空にもこの水は流れ込んできていて、便宜上、その人を「推し」と説明することは増えたと思う。そして、そう言うときに、わたしはまさに露悪的な、あるいは自虐的な気分を口の中に含んでいるのだった。関係は名づけることで発生する。「ダンサー」や「俳優」はその人が選んだ職業だとしても、みる者にとってその人がどういう存在であるか、実体化されることはその人自身は選んでいない。それをこちら側からむりやり名づけてしまうこと。「推し」というのは、推す側の手や腕を顕現させる言葉だ。日ごろ透明なファンとして透明な視線を送っているつもりでいるわたしは、この言葉によって自分の手に鏡を差し向けられることにときおりぎょっとしてしまうのだけど、しかし、わたしが完全に透明なはずもないのだった。「推し」という言葉の妙な座りの悪さには、この言葉自身の暴力性への自己批判があらかじめ含まれているのかも知れない。
(平岡直子「わたしの画面越しの炎、わたしの月の裏側、わたしの航空障害灯」p18~20)