息吹
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著者 : テッド・チャン
翻訳 : 大森望
出版社 : 早川書房
発売 : 2019年12月
かつてわたしに動力を与えてくれた空気が今度はだれか他人の動力となりうるのだと想像すると、元気が湧いてくる。この言葉をここにこうして銘刻することを可能にしてくれた息吹が、いつかだれか他人の体を流れるのだと思うと、励ましになる。そうなれば、生き返るチャンスがあるかも知れないなどと考えて自分を欺くつもりはない。なぜならわたしは、その空気ではないからだ。わたしという存在は、その空気が一時的にとっていたパターンに過ぎない。わたしであるパターンは、わたしが生きているこの世界全体であるパターンもろとも消えてしまう。(…)願わくは、今これを読んでいるあなたが、そうした探検家のひとりであってほしい。この銅板を発見し、表面に刻まれた言葉を解読したのであってほしい。だとしたら、今あなたの脳を動かしているのがかつてわたしの脳を動かしていた空気だろうとそうでなかろうと、あなたの思考をかたちづくるパターンは、わたしの言葉を読むという行為を通して、かつてわたしをかたちづくっていたパターンを模倣することになる。そしてわたしは、そのようにして、あなたを通じて生き返ることになる。(『息吹』 p66)
「(…)しかし、いま現在、みなさんのディジエントは、どんなすばらしい存在であっても、労働市場で求められるような職務技能も持っていませんし、いつそれを獲得できるかもわかりません。ほかにどうやって必要な賃金を得るんでしょうか」
おなじことを自問してきた女がこれまで何人いるだろうと、アナは思った。「だから、最古の職業に就けと」 (『ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル』 p170)
人間がしゃべっているときに発する音は、山羊の脚の皮と同じくらいなめらかで切れ目がないが、単語は、肉の下にある、骨のようなもので、単語と単語のあいだの空白は、山羊の脚をばらそうと思ったときに切断する関節部分に相当する。書くときに空白をはさむことで、モーズビーは、自分のしゃべることに目に見える骨をつくっているのだ。(『偽りのない事実、偽りのない気持ち』p229~230)
この問題は、結婚生活にかぎったことではない。あらゆる種類の人間関係が、許して忘れることに依存している。(『偽りのない事実、偽りのない気持ち』p231)
紙に記された物語は、奇妙なことにがっかりさせるようなものだった。ジジンギは、書くことを最初に学んだときのことを思い出した。書くことによって、自分がその場にいるかのように鮮やかに語りを感じられるようになると想像していた。しかし、そうはならなかった。コクワが物語を語るとき、彼はただ単語だけを使うわけではない。声の音、両手の動き、目の輝きも同時に使う。語り手は全身で物語を語り、聴き手は同じように全身で物語を理解する。そういうものはどれひとつとして紙には記されない。書き留めることができるのはむきだしの単語だけ。そして、単語だけを読むことは、コクワ自身の語りを聴く体験のほんの一部でしかない。オクラを食べるかわりに、オクラを調理している鍋を舐めるようなものだ。 (『偽りのない事実、偽りのない気持ち』p235)
人間は物語でできている。わたしたちの記憶は、生きてきた一秒一秒の公平中立な蓄積ではない。さまざまな瞬間を選びとり、それらの部品から組み立てた物語(ナラティブ)だ。だから同じ出来事を経験しても、他人とまったく同じようにその経験を物語ることはない。様々な瞬間を選びとる基準は人ぞれぞれで、各人の個性を反映している。(『偽りのない事実、偽りのない気持ち』p242)
わたしは、デジタル記憶のほんとうの利点を見つけたと思う。核心は、自分が正しかったと証明することではない。核心は、自分が間違っていたと認めることにある。
わたしたち全員が、さまざまな状況であやまちをおかし、残酷な行動や偽善的な行動をとるが、そのほとんどを忘れてしまう。それはわたしたちがほんとうの意味では自分を知らないことを意味している。 『偽りのない事実、偽りのない気持ち』p264)
「でも、問題は、わたしたちが他の分岐について知っているという前提のうえで、正しい選択をする事に価値があるかどうか。わたしはぜったいにあると思う。わたしたちはだれも聖人じゃない。でも、もっといい人間になろうとすることはできる。なにかいいことをするたびに、次にまた、もっと高い確率でいいことをする人間へと自分をかたちづくっている。これは大事なことよ。(…)(『偽りのない事実、偽りのない気持ち』p385)」