失われたいくつかの物の目録
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発行年月 : 2020年3月
出版社 : 河出書房新社
アフター6ジャンクションの日本翻訳大賞のノミネート作の紹介で知って読んだところ、はじめの緒言のテキストで結構食らって、その内容を胸に各章読むのが面白かった。
上記のように奥付に書かれている装丁の担当者は水戸部功だったけど、原著は著者が行っているようで、本文の内容や形式とメディアとしてのデザインが一致していてとても美しい本。
基本的にすべての物はゴミであり、すべての建物はすでに廃墟であり、すべての創造は破壊に他ならない。人類の遺産を保管していると標榜する各専門分野や公共機関のする仕事もまた同様である。考古学ですら、たとえどんなに細心の注意を払って過去の時代の堆積物を取り扱っていようとも、それは荒廃の一つの形にすぎない。そして資料館、博物館、図書館、動物園、自然保護区都は管理された墓所に他ならず。そこに保管されるものは、現在の生の循環から引きはがされたものであることが少なくない。そうしてわきへ取り除けられ、そう、忘れ去られるのだ。町の景色にあふれる、英雄的な出来事や人物の記念碑と同じように。 (緒言, p16)
悲劇詩人アガトンの作品のうち、今に伝えられているのはわずかにアリストテレスが引用した二つの警句のみ。「芸術は偶然を愛する。偶然は芸術を愛する」「神々ですら過去を変えることはできない」
その神々にも禁じられた事柄を、独裁者たちはいつの時代も繰り返し要求してきたように見える。彼らの破壊的な創作欲にとっては、同時代に自分の名を刻むだけでは不十分ということだ。未来を支配しようと望む者は、過去を廃さなければならない。新たな王朝の祖、あらゆる真実の源を名乗るものは、先駆者たちの記憶を抹消し、いかなる批判的思想をも禁じなければならない。(...)
地球自体は周知のとおり、過ぎ去った未来の残骸の山であり、人類は色とりどりに寄せ集められ、互いに相争うヌミノース的な太古の相続共同体として、たえず獲得・変革され、拒絶・破壊され、無視・排除されなければならない。その結果、世間一般の想定に反して、未来ではなく過去が可能性の空間となるのだ。だからこそ、過去の解釈を変更することが、新しい支配体制の最初の公務の一つになる。私のように勝者たちによる聖像破壊、さまざまな記念碑の撤去といった歴史の断絶を体験したことのある者にとって、あらゆる未来のヴィジョンの中に未来の過去を見ることは難しくない。 (緒言, p17-18)
死すべき運命を悟ることは屈辱的であり、無常に抗いたい、未知の後世に痕跡を残したいという願望は理解できる。そう、御影石の墓石に刻まれた碑文がその志を倦まず語っているように、記憶の中に「忘れ去られることなく」留まりたいと。
宇宙探査機ボイジャー一号とボイジャー二号に乗って 星間空間を遠ざかっていく二つのタイムカプセルに書かれたメッセージもまた、知的生命体の存在をアピールしたいという感動的ともいえる希望を示すものだ。まったく同じ二枚の金メッキを施した銅板レコードには、写真やイラスト、音楽やさまざまな音、ならびに五十五種類の言語による声の挨拶が収録されているが、その恐れを知らない不器用さ―「ハロー、こちらは惑星地球の子どもたちです」―が人類について多くを物語っている。(...)この試みは科学の中に生き続ける魔術的思考の結果であると解釈することが出来る。 (緒言, p22-23)
私には依然として本こそあらゆるメディアの中で最も完璧なメディアのように思われる。ここ何世紀か使われてきた紙は、パピルスや羊皮紙や石や陶器や石英ほど長持ちするわけでもないし、最も多くの言語に翻訳された書物である聖書ですら、完全な形で私たちのもとに届けられてはいないのであるが。それは後の何世代かの人間に受け継がれる機会を高める複製芸術であり、執筆され印刷されて以降の過去の時間の痕跡が一緒に書き込まれた、開かれたタイムカプセルである。そのタイムカプセルの中では、あるテクストのどの版も、それぞれ廃墟と似通ってないなくもないユートピア的空間であることが明らかになる。そのユートピアにおいて死者たちは雄弁に語り、過去は甦り、文字は真実となり、時間は止揚される。もしかすると本は、一見身体を持たず、本からの遺産を要求し、あふれるほど膨大な情報を提供する新しいメディアに比べて多くの点で劣る。言葉の本来の意味で保守的なメディアであるかもしれない。だが、このメディアは文章、挿絵、造本が完全に溶け合い一体となった、まさにその身体の完結性ゆえに、他のいかなるメディアもなし得ないように、世界に秩序を与え、時には世界の代わりにさえなるものである。さまざまな宗教による死すべきものと不死のもの―すなわち身体と魂―への観念的な分割は、喪失を乗り越えるための、もっとも慰めになる方策の一つであるかもしれない。しかしながら運び手と内容の不可分性は私にとって、本を書くだけでなく、造本もしたいと考える理由である。 (緒言, p24)