シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇
https://gyazo.com/f597a0fa64c5f90212e5878c3ab1896e
https://www.youtube.com/watch?v=10ict3GCxGY
公開 : 2021年3月
制作 : スタジオカラー
上映時間 : 155分
エヴァについて自分の中での存在をそこまで大きなものとして語る話はないけど、リアルタイム世代的な当事者意識はかろうじてあり、新劇場版をワクワクして観に行っては、序と破で垣間見えた希望の話的なものに安堵した後、Qで突き放された思いをするという、おそらく凡庸でテンプレ的な反応をしてしまったので、今作を観るにあたっても結構腰が重くなってしまった。
更にはなんだかんだで長きにわたって付き合ってきたシリーズの結末なのだから、せっかくならこれまでのおさらいをしてから臨んだ方が良いのではという無駄な意識の高さが災いし、全く観に行く状態に仕上げられないまま時間が過ぎ、この調子では観に行かずに終わる展開が現実味を帯びてきたので、おさらいは諦めて序破Qの記憶もだいぶボヤけたまま観に行ってしまった。
一応は劇場でエンディングを見届けた方がいいだろうという義務感と、もはやどういう映像を見せられても「まあエヴァですしね」みたいに思えてしまえるだろうという達観や、あるいは「言うても今回で最後だし流石にこの期に及んでの鬱展開とかないでしょう…」という打算だったり、ひっくるめれば、間もなく寿命を迎えるものの最期を看取るのに近い感覚。
そんな低めのテンションで観たシンエヴァは、想像通り、想像もしていなかったような酷いことにはならないんだなという穏やかさがずっと漂っていて、それが優しいとも言えるし、生ぬるいとも言えるかも知れないけど、もう終わるんだしこのくらいでいいんじゃないかっていうか、まあやっぱこういう話なんですよねというところに向かっていく変な安心感があった。
その一方でものすごく馬鹿馬鹿しいような演出と過剰に派手なアクションも沢山ある、という歪さが自分の中ではとても映画っぽい手触りだった気がする。
鑑賞中もずっと醒めたような気持ちはどこかにあったのだけど、それでも物語が結末を迎え、ラストシーンの宇部新川駅でマリのセリフが発せられたところで、なんでかまんまと泣いてしまった。
ここに至るまで長かったなというか、この結末にこんな時間掛けてんじゃねえよというか、でもこれだけの時間があって至るこの結末だから感じるものもあるというか、とにかくようやく大人になれたんだなっていう感慨が押し寄せてきたのだと思う。
良かったです。
その他雑感
序盤の第3村のそれこそリハビリというか自己啓発的なパートは、あのくらいの時間が必要なんだみたいな狙いも分かるんだけど、レイ絡みのほっこり描写の反復にちょっと胸焼けしてしまう。
ネルフ施設の廃墟で体育座りし続けるシンジとその側に立って見つめるレイの姿をタイムラプス的な演出で見せるシーンは、2人して微動だにせずそこにいるんかいという可笑しさがすごかった。
大人になったトウジやケンスケは、シンジに寄り添う役割を担っていた分それほどではなかったのだけど、結婚して出産したヒカリのキャラクター性の薄さや感じる距離は生々しく、周りの同世代がそういう経験を経て大人になり疎遠になっていく時に感じる寂しさ。ビシビシ共感せざるを得ない。
レイが赤ちゃんを寝かしている最中に身体に異変が生じて畳に倒れこむ時の頭がぶつかる音がよい。
そこそこ前めの座席だったせいもあり、エヴァのエヴァやヴンダーのアクションに関しては、冒頭のパリのシーンからずっと無茶苦茶派手にグルングルン動いていて格好良いっぽいのだけど、具体的にどんなアクションが行われているのかが理解できず、軽くフラストレーションの溜まる瞬間が多かった。
ヤマト作戦のエヴァの群体もボリュームや密度が凄いんだけど、旧劇場版の量産機にあった禍々しさとは程遠く、弾幕シューティングの画面を見てるような気分。
アスカがシンジに無理やりレーションを食わせる場面のアクションの方が、アニメーション的なカタルシスを感じる。
シンジとゲンドウの対決からエンディングに向かうまでにおける、実相寺昭雄的な演出も、まだこういうのやりたいんだなという変な驚きはあったけど、ネガティブな印象ではなく、物語を畳むためにやろうと思う気持ちは分かる気がする。
作画以前にレイアウトの切り方とかの方の新鮮さの方が印象に残った。
パンフレットをちらっと読んだところ、従来的な最初にまずコンテを描いて〜という進行ではなく、3Dでプリヴィズ作ってからコンテを決めるような作り方をしていたらしく、そういうアプローチの仕方は見習いたいなと思う。
もう1回くらい映画館で観たい。
参考
25:50ごろからの塚越健司さんの話が面白かった。
第三村における綾波の、自分自身の存在が何かのコピーであれそこで感じる事が重要だと感じていく一連の描写は、コピー世代としての庵野秀明の開き直りみたいな自己肯定と決意の表明が現れていて、あそこで一つゴールを迎えている、という話はその通りだなと思った。
父(世代)殺しというよりそこからの解放。
それも含めてそうする以外ないでしょっていう全体のムードにつながってるように思う。