ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険
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発行年月 : 2020年4月
著者 : コーリー・スタンパー
翻訳 : 鴻巣友季子, 竹内要江, 木下眞穂, ラッシャー貴子, 手嶋由美子, 井口富美子 装丁 : 松田行正, 杉本聖士
出版社 : 左右社
辞書編纂の実務にまつわる苦労話みたいな話が多いのかなと思ったら、言葉を扱う姿勢や、言葉を扱う事の難しさがぶちまけられていて面白い。
2020年現在自分が住む国の為政者の発言を聞いていると、放たれる言葉の都合のよさだったり、無茶苦茶な論の組み立てとかと、それを正論で突き崩せない理不尽さにうんざりして、自分の母語である日本語ってもう駄目なんじゃないかと思わされるのだけど、やはり日本語だから自ずと腐っていくなんていう事はなく、大なり小なりの社会で言葉を交わす際の誠実さが常に問われている事の積み重ねだけなのだよな、と読みながら思った。
筆者が辞書編纂の作業を「工芸(craft)」と捉えているのが印象的だった。
英語は「守るべき砦」だと思われがちだが、それよりも「子ども」だと考えたほうが、比喩としては的を射ている。親はわが子に愛情を注いで育てるが、ひとたび運動機能が備わると、その子は親が近寄ってほしくない場所ばかり行こうとする。(……)英語が成長するにつれ、我が道を行きはじめるが、それは正常であり、健康的なことだ。 (p71)
多種多様のアイデンティティ運動のひとつが、言語の再定義である。それは蔑まれる側――女性、ゲイの男性、有色の人たち、障碍を持つ人たち、などなど――が集団としての自分たちに投げつけられていた激しい侮辱語を自ら積極的に使うことによって、自己のアイデンティティを誇りに思う標として使いはじめる、という過程のことだ。言語を再定義することは、圧制者から押しつけられる力を払いのけ、こちらに向けて放たれた矢をはっしとつかむことにつながるのだ。
しかし、再定義の道はそれほど平らかではない。まず、蔑まれる側のコミュニティがたったひとつしかないと思われがちだ。実際には、ある特殊な民族性、性別、ジェンダー、性的志向、社会的な階層をたまたま同じくする人たちの多様な集まりだというのに。 (p205)
しかし、言葉とは、非常に個人的なものだ。辞書編纂者にとってですら。自分が何者であるか、周囲を取り巻く世界がどういうものであるかを説明し、なにを自分がよいと思い、悪いと思うかを活写する手段なのだ。(......)言葉は人を傷つける。なぜなら、言葉は互いを傷つけあう手段として唯一社会的に認められているものだからだ。弱気な辞書編纂者は突如として乱闘にさなかに放り出される。白人の辞書編纂者は ”nigger” の項目を編集せねばならなくなってようやく、この言葉が代弁する数世紀にもわたる攻撃に気づくのだ。そして、言葉を再定義し、人を損なう力を圧制者からもぎ取り、尊厳にかかわる問題として思いつき限りで一番ひどい悪態を使う、こうした試みにも目が開く。自分たちはそうした改革の場外にいることを、辞書編纂者は自覚している。彼らは知っているのだ。その白さゆえに、受けた教育ゆえに、社会的地位ゆえに、"nigger" という語が代弁する問題の一部に自分たち自身がなっていることに。 "nigger" という言葉、そしてそれに対するありとあらゆる意見に対して、白人の辞書編纂者はどうしたら正しいことができるだろうか。
言葉は個人のものだけでなく、身体的なものでもある。辞書編纂者は侮蔑後に語義をつけながら次第に鍛えられる。"bitch" がもはや英語にすら見えなくなる前に何度、この語を読めるだろうか。われわれは、みんながこの世界でそれぞれの生きた経験を持ち、言葉には実態があるのだということを知っている。われわれは手を使って言葉を書き、口を使って言葉を話し、言葉がつけた傷跡を体に持つ。 (p218)
語源盲信ほど最悪の衒学はない。無意味な個人的見解を大げさに言い立てて、歴史の本質を保護すべしと憂いてみせる。言語は変化する。そこに欠けているのは、言語は変化するということこそが歴史の本質だという事実である。 (p237)
われわれは、英語の人生のアルバムを通して眺めながら、意味をなさない写真、ぼやけていたり、運悪く撮られてしまった感じのむっつり顔が写っていたりするスナップなどは、捨てる権利が自分たちにはあるものだと考える。ところが、まっすぐ垂直なラインから外れたところにこそ、驚きや輝きが潜んでいるものだ。それは英語だけに限らず、われわれが住むこの世界でも同じこと。(......)
英語とは、征服と適応をかいくぐって生き残ってきたのだが、その多くの適応とはただの間違いだったり、読み違いだったり、なのだ。不完全な人間が作った、生きた言語が完璧になるはずはないが、時により優れた読みを生み出すこともあるのだ。 (p243)
辞書からひとつの語を取り除いても、その後が具体的に指すものはもちろん、間接的に指すものも消し去ることにはならない。辞書から人種に関する差別語を取り除いても、人種差別をなくすことにはならないし、辞書から "injustice"〈不正〉という語を取り除いても、正義がもたらされるわけではない。そんなに簡単にできるなら、"murder"〈殺人〉や "genocide"〈大量殺戮〉という語はとうの昔に取り除かれているはずではないか。 "stupidity"〈愚かさ〉と "death"〈死〉のように、"jerkery"〈間抜け〉は宇宙の存在論的定数なのだ。(p306)
現代に生きる私たちは、芸術とは瞬時に生じるものだと考える。稲妻が走ったとか、ひらめきの電球がついたとか、ぱっと思いついたといった具合に。一方、工芸は内的にも外的にも時間がかかる。技を磨くためには辛抱強さが求められるし、その技が育つのを温かい目で待ってくれる(そして、それに見合った対価を払ってくれる)社会も必要だ。
ところが残念なことに、時間に余裕がある人はいない。 (p323)