アーカイブの思想
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発行年月 : 2021年1月
著者 : 根本彰
出版社 : みすず書房
アーカイブの考え方についての成り立ちから、日本におけるそれの不完全さとそこに連なる現代の日本社会や政治の閉塞感について書かれた本。とても面白かった。
特に日本において言葉が真理を表現するためのものでなく、古代よりレトリックの道具であったために、アーカイブを基にした権力構造やコミュニケーション構造の構築が進まなかったという話は、公文書問題や政治家の発話について自分がここしばらく考えていた事の大きなヒントのような気がする。
また、たとえば2021年現在のコロナ禍下で欧米諸国と比べて日本国内のライブハウスや劇場などになかなか十分な支援が与えられず、与えるべきものとして認知されても「文化を守ろう」とか「クリエイターを支えよう」みたいな表面的な訴えしか交わされないといった話も、こうした話につながる、根が深いという言葉では言い表せないレベルの話なんじゃないかと思ってしまう。
アーカイブの思想は古代ギリシアから始まっています。ギリシア語で ἀρχεῖον(アルケイオン)と表記するこの語は、英語の archive、フランス語の archives(アルシーブ)、ドイツ語の Archiv(アルヒーフ)、イタリア語の archivio(アルキヴィオ)などヨーロッパでは arch- を語幹にもつ単語のもとになったものです。arch- は archchaeology(考古学)や archaic smile(古代の微笑み)のように始原や最初のものという意味と、anarchy(無政府状態)や hierarchy(ヒエラルキー)のように支配や権力という意味があります。 (p16)
図書館は知を一度蓄積して皆で共有して利用し、新たな知を構築する仕組みです。もし、外国から入る新しい知を効率よく流通させればよいとするなら、それは出版市場を活性化させて、安くし、皆が手に入りやすい方法をとればいいわけです。図書館を整備してもそれ自体は社会全体の経済的な富を増やすことはありませんから、市場中心の考え方からは迂遠な方法と見なされます。日本で図書館の位置づけがはっきりしない理由はこの辺にあると思われます。 (p26)
まずロゴスですが (...) λόγος と書かれる古代ギリシア語で、言語、論理、法則、理性などを意味する多義的な言葉です。ここで特に注目したいのは、論理や法則、理性などの心の動きと言語が並列されている点です。言語自体が論理や理性と等価のものとしてあるのはおかしいと感ずるのが日本人の一般的な感覚でしょう。(...) しかしながら、紀元前6世紀のギリシアの哲学者ヘラクレイトスは (...) 知恵とは、この宇宙のうちにある万物を貫く秩序であるロゴスを認めることであると説いています。つまり宇宙の秩序を言語化して述べることこそが哲学者の役割であると宣言しているわけです。この思想は、古代ギリシア哲学において様々な形をとって語られ、それはその後も一貫して秩序や補足を記述する言葉が重要であるとして語られます。現在に至るまで、「学」がロゴスの働きをもって言葉で表現する行為であることに変わりがないということです。
真理や法則と言語を同一視する思想は時代を下って、キリスト教誕生の時点で現れてきます。新約聖書の「ヨハネによる福音書」の冒頭で語られる「はじめに言葉(ロゴス)があった。言葉は神とともにあった、言葉は神であった」は、混乱した時代にキリストが神のもたらす秩序を語ることができる唯一の存在として現れたことを示しています。この思想はヨーロッパ忠誠を経て現在に至るまで影響力を持ってきました。 (p35~36)
近代以降、文字が手書きからタイプライターやキーボードによる文字入力によって代用されることが増えるに従い、石川のいう「筆触」は失われていきます。それによって、書く行為が宗教的であるとともに身体的なものであることに伴う性格が失われていったのは確かでしょう。それが西洋のようにアルファベットだけの均一的な文字世界の場合と異なり、象形文字から始まった中国文字(漢字)や漢字とかなが混じり合った日本文字の場合には、また別の現れ方をします。そこには象形文字の呪術性の残響が伴うのみならず、文字入力の間接性という問題が関わります。(...) 変換のために、画面を注視してキーを押すというひと手間が要求されます。このときに何が生じるのかについての検討、情報論や文化論レベルで十分に行われているとは言えません。これは本講の主題と密接に関わる大きな問題ですが、ここでは、音声と文字が対応しやすい西洋語と、対応が間接的である中国語や日本語では書くという行為も同じでないことを指摘するにとどめます。 (p59)
文書・記録は歴史に関わり、書物は思想・哲学あるいは文学・学術に関わります。歴史は原点が重要でそこに繰り返し戻って伝える生の資料が文書・記録です。それに対して、書物は逆向きです。原点にあった思想・表現・メッセージが未知の人に向けて放たれています。一回しかない歴史的事象の証拠をそのまま伝えるのが文書・記録であり、これを管理するのがアーカイブズであるのに対して、コピーを繰り返して多くの人に読まれ伝わっていくことを前提にしているのが書物であり、それを管理するのが図書館だということです。 (p76~77)
ヨーロッパやアメリカの都市において、劇場、音楽ホール、美術館、博物館、図書館が重要な位置づけにあったことは、古代からの演劇、音楽、美術、知の位置づけを反映していると言えます。日本ではハコモノ施設として不要不急のものとされがちであるのに対して、ヨーロッパには歴史的な根拠があるということができるでしょう。 (p142)
たとえば、公文書によるアカウンタビリティを明確にした政治や行政が問われるときに、日本の政治家や官僚が公的な記録や公文書の作成をいやがる事例が明るみに出ることが続いていますし、1987年に公文書館法ができ、また2009年に公文書管理法ができても法の精神に反する公文書管理の運用が続いていることも知られています。日本においてアーカイブズを公的に管理するという考え方そのものが忌避されてきたという歴史的事実があります。その理由が単に責任逃れということにあるだけではない、特有の意思決定構造やコミュニケーション構造にあることは確かでしょう。そしてそれをたどれば近代の日本の統治機構においてつくられた権力構造にいきつきます。その構造をつくることを許した歴史的理由として、言葉が真を明らかにするためのものではなく、古代から続く日本的レトリックの道具であったことに遡ることができるでしょう。つまり、日本特有のロゴスの存在があり、それは西洋由来のものとはかなり違っていたのではないかと考えられます。 (p214~215)
西洋をモデルに出発した日本でしたが、キリスト教から国家を解放して政教分離を進めた西洋に対して、日本では逆に宗教的権威を天皇一人に集中しそれを国民統合の核とする、祭政一致の体制が志向されました。これを明確に示す『国體の本義』は、1937年(昭和12年)に文部省が学者を結集して編纂した書物で、冒頭で神勅や万世一系が強調されており、国体明徴運動の理想的な根拠になりました。これが教育や政治の問題だけでなく学術や知の問題でもあるのは、『国體の本義』の14名の編集委員のうち6名が、東京帝国大学文学部の教育学、国文学、国史学、倫理学、仏教学、美術史学の教授であったことからも分かります。祭政一致的な知の構築に、久松潜一、黒坂勝美、和辻哲郎など日本の人文系の知を代表する教員が関わっていました。ヨーロッパで、大学が近代国家よりも古くから存在していたことが学問の自由の根拠にもなったのですが、日本の大学は帝国大学として出発した時点で、国家に奉仕することが要請されたことがわかります。 (p240~241)
日本出版配給株式会社(日販)の解散後も、出版流通機構は中央から地方に効率よく知識を配分する仕組みとして機能し、どこでも同じような本が棚に並ぶことが繰り返されます。流通した講座や新書のような啓蒙的な出版物は、二元論的政治体制を前提とした枠組みで論じたものが多く、これもまた外部に近代化の目標なりモデルをもってそれを参照しながら進んできた日本の人文社会系の学問の姿ということができます。
そして、そのなかではアーカイブをつくり参照しながら自分の考え方を形成するようなタイプの知識利用は、なかなか一般化できませんでした。ナショナルカリキュラム(学習指導要領)と検定教科書、入学試験の知のトライアングルが支配するなかでは、学習者みずからが知識を拡張しようとする意欲を育てるのは難しかったのです。 (p271~272)
私塾の場がドキュメント利用の場を兼ねてそれがアーカイブになるというのは知的発展の歴史的なパターンでした。これが安定したアーカイブ装置になるためには社会のシステムにうまく組み入れる必要がありますが、日本ではこれができにくいのです。おそらくはアメリカのようにアーカイブ装置の価値を認める社会であれば、大矢壮一文庫のような試みに民間資金が投入され、索引データベースごと公的な機関で引き取って運営するような動きに結びつくものと思われます。
アーカイブ的知は日本社会では、あまり必要ないとされてきたわけです。国会図書館や憲政資料室の設置は制度改革期にあって可能だった僥倖の出来事と考えた方がよいように思われます。明治政府が実際にはそうしたアーカイブ的な装置の整備を後回しにしたことが、現在に至るまで継続しているわけです。このことが日本社会の閉塞を生み出していることについて自覚的であるべきです。 (p277~278)
アーカイブが始原と権威=権力の双方を意味するものであったことを再度思い出せば、どのような機関であれ、アーカイブは存在根拠を示すことで前もって機関の進む方向を示す指針となる装置であり、機関にとっての保証書であるとともに羅針盤のようなものと考えるべきです。 (p283)