それでも女をやっていく
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発行 2023/2/6
ちょっと前のアフター6ジャンクションで著者のひらりささんがゲストに来て自ら紹介していたのが面白そうだったというか、素通りしてはいけない雰囲気がびんびんに感じ取れたので買って読んでいる途中。そして実際何かを被弾してまあまあ喰らっている。
https://podcasters.spotify.com/pod/show/after6junction/episodes/ep-e2029rb/a-a9f33lh
これまで生きてきた男中心の社会での違和感に始まるフェミニズム的な話が中心の序盤も「あー」とか「うー」とか心の中で声出しながら読んでいたのだけど、自分的に一番ぶっ刺さったのは、ひらりささんが若い頃にBLとか百合を消費し、同性と親密な関係を築いては壊してきた過去を紐解いていくChater2における自己分析のところで、外で歩きながら読んでいてつい声にならない声を漏らしてしまった。
わたしの過去の振る舞いは、規範を越えることへの臆病さもあるし、元を辿れば性愛に対しての臆病さだったのだと思う。友人にとどまる距離感を越えると、自分の不完全さやみっともなさがさらけ出されてしまうに違いないと思い、それに堪えられなかった。
きっと、わたしが拒んでいたのは異性でも同姓でも無くて、他者だ。そして本当に耐えられなかったのは、他者を通じて目の当たりにすることになる、不完全でみっともない自分だ。性別にかかわらず、誰に近寄られても、うずくまっていたかったのだ。
(p144~145)
また、男そのものの潜在的加害者性とそれに対する贖罪意識は、この本を読んでいる最中も否応なしに抱え込んでしまったりするのだけど、それを意識して女を被害者としてケアしようとするあまり、個人を無視してやいまいか? という問いもなされていて、追い討ち的にハッとさせられる。
つまり、彼のようなタイプの人――男性ジェンダーの加害者性に対して責任を強く感じフェミニズムにたどり着いた人が、その反面、目の前の全ての非男性に対して‶かよわい被害者”という眼差しを向け、相手個人を、ひどく無視してしまう事もあるのではないかということだ。
よく考えたら、飲み会でフェミニズムに関わる話をしている間も、彼の言葉は、自分の罪悪感の吐露が中心だった。本当はわたしは、しゃべっている間は楽しくあろうと努めていただけで、うっすら居心地が悪かったのではないか? 私は自分で自分を守りたいし、自分の意志で何かを選びとることのできる存在として、わたしを見てくれない人と話したくはない。
(中略)
一方でわたしもきっと、総体としての男性の加害者性に厭気を抱きすぎて、男性個人に「潜在的加害者」のレッテルを貼ってしまったことが、ないとはいえない。フェミニズムの勉強をしていると、自分の加害者性に気づかされることも多い。誰も彼もが、貼られたレッテルに苦しんだり、何がしかで傷ついたりしている。社会にとって正しいと思ってやっていることが、同時に、自分の傷つきを解消するための代替行為でもありえる。じゃあどうしたらいいんだって言われると、わたしの中でまだ答えは出ていない。すごく難しくて頭がこんがらがる。
(p199~200)
まさに、そんな事言われたらじゃあどうすりゃええのよ…なんてついつい思ってしまいそうになるが、一般論的にざっくりこうすべきという振る舞いとか思考なんてものがあると決めつけて、いろいろな事柄を安直にそこに投げ込んでいけばよいものではないというのを忘れずに、日々人と接したり発言していくしかないんだろう。
その他、著者の活動の事とか、思春期に触れてきた漫画の事とか、親密だった相手とのエピソードなどもあけすけに描かれていて、いろんな角度からこの辺りの問題について考えるきっかけになるし、安易にバランスをとるという事でなく、一方的なメッセージをぶつけるだけにならない誠実な問題との向き合い方も学べるとても良い本だと思います。