女と刀
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発行: 2022年3月 (単行本1966年)
出版社: 筑摩書房
鹿児島の士族の家系に生まれた主人公の女性キヲが生きた明治から昭和の太平洋戦争での敗戦までの100年弱の日本における女に一生について。
士族という生まれ故に、父親からプライド高く己を貫けみたいな事を徹底して躾けられる一方で、こと話が結婚に関わった途端、「家のまとまり」だの「血」だのの為に女のお前は己を引っ込めて言われた相手と結婚せよと言われるといった事に代表される矛盾の連続は、ほとんどアトウッドとかのディストピアSFみたいでもあるし、でもその辺の意識って今も根強く残ってるようなものだよなとか考えると、いやいや今の現実もディストピアでしょと考えずにはいられなくなる。
とは言え、キヲがなかなか苛烈すぎるので、正直そこまで言われるとちょっとついて行けませんが…と言いたくもなってくるんだけども、吐き出されているものが、差別される事や男への怒りや対立というよりは、なんでそんな差別をするのか「家」とか「血」とかじゃない理屈で説明してみろよオイコラっていう問いの徹底した詰め方だからか、あんまりうんざりせずに納得しながら読めてしまう。
また、フェミニズム的な側面だけでなく、息子の紀一が出身で差別してくる小学校の教師に対してストライキを行うくだりなどもあって、この作品が元々思想と科学から刊行され、鶴見俊輔が解説を書いているのも、すごくなるほどと言う感じがした
フェミニズムの問題に関心がある人よりも、「伝統的家族観」みたいな事言いたがる人とかにこそ読んで欲しい。
しかし、この肌が侵されぬ鋼と活き、瑞々しさをたたえていたのは、ごくわずかの間だけにすぎなかった。結婚を境として、この肌はこれまでに父に押さえられ、血の体制(まとまり)と名のつくものに押さえられてきた。なれど、もはやこれ以上、わたしはわたしの意志を殺し、侵されのひといろに塗りつぶされる女の歴史を、おのれのものとしてはならぬ――と思うのだ (p149)
男と女が、共に生きるということで、男である女であるというその道をきわめるために、お互いがお互いを侵しはしても、侵されてはならぬ、というその肌の重みを突きつけ合って生きていくというならまだしも――女が男と同等(ひとしなみ)に生きる権利を得ようとする――ひとえにそれだけの姿勢にとどまったところで女の新しさなどと、そのような一枚皮の線におく、古い女新しい女の基準など笑殺(しょうさつ)したところで、生きるよりほかはないわたしなのである。 (p294)
おのれの血をはじき、そしてながしてうちたてたものという根が確(しか)とあるのならともかくも、この際いくさに敗けたということで西洋(よそ)の国からおくりこまれてきたこの民主主義なるものを、その深さも知らずおのれのものとしていることに、わたしにもまた、それはお仕着せ的舶来品の軽さにうつつをぬかしているとしか見えないのである。 (p351)
「おまえの怖ろしかとは、世間の噂じゃろう。噂におのれも巻きこまれるのが恐ろしいとじゃな。それと――これは大事なことじゃ。おまえのほんとの胸のなかは、他の男におふくろさまをとられたくなかとじゃろうが。それが本音じゃろうが。そしてのう、そのおまえのとられたくないとしているそれは、いかに世は民主主義となっていて、男も女も同等の権利をもつようになったとはいえ、いやその実、その民主主義なるものさえも、なぜ在らねばならなかったかというその根のところを問いただすこともしなかった――男は横座――のこの精神じゃ。おまえのなかにあるこの精神が、おのれの世を生きようとのぞんでおじゃる、おふくろさまの壁となっているのじゃ。母ひとり子ひとりの暮らしであったゆえ、それが、いっそうに濃ゆくあることじゃろうが、それでおふくろさまを縛っちゃならん。それで、おふくろさまを縛るということは、卑怯なことじゃで。おまえも含めて、男の衆すべてそこの根のところをあけなければ、まことの民主主義というものもみられぬとわたしは思うがの。もとより、 これは男の衆のみ責められぬことじゃ。 女の衆もそこのところは許しておるとじゃで。まったくにずるくな。そこを許し ておかぬと女もきつかとじゃ。ことに性根をもたぬ女はな。そこのところによりかかっておらぬと生きていけんとじゃで。じゃが、おまえのおふくろさまはそこに閉じこめおくことはできん。それは絶対にできんことじゃ。いかにおまえにとって苦しかろうとも、このことはもう一度深く噛みわけておくれ」 (p392)